「今の、何……?」
白のワンピースを着た、オレンジ色の髪の小柄な少女が驚いた顔で呟く。
その理由は、彼女が今いる不思議な場所――虹色のグラデーションがかかった空のせいでも、そこに浮かぶ巨大な骨や首輪などの不可解な物体たちのせいでも、彼女たちの前に突如として現れた魔物達のせいでもなかった……。
魔物を倒した瞬間、頭に浮かんだ見たことのない映像。
元々記憶のない少女がそれに対して驚いた理由は別にあった。
まるで自分が直接見ているような感覚……にも拘わらず、自分の感情とは別の――誰かがその時に感じた気持ちのようなものを、映像と一緒に感じたからだ。
その余りにも不自然な自分とは別の何かの感情が、これは失った自分の記憶ではないのだと、少女にハッキリと感じさせていた。
何よりおかしかったのは……。
「何だ今の? いや、それよりあの顔……依頼人?」
映像を見たのは少女一人だけではなかった。
「依頼人……? 今のへいまにも見えたの……?」
「少女にもか?」
探偵服を着た大柄な男が不思議そうな顔で少女の方を見る。魔物が消えた瞬間、2人の頭の中には同時に、全く同じ映像と感情が流れていた。勿論それは平真の記憶でもない。
ぶっきらぼうそうな男が、悲しそうにこちらの頭をゆっくりと撫でてくる……そんな映像。
「……」
少女が何かを考え始める。思索する彼女の、ビー玉のようなその綺麗な瞳がキラキラと輝いて見えた。
「よく分からんが時間もない。残りも倒すぞ!」
宣言と同時、平真の姿がその場から消える。
おかしな空間、その中に残った犬のような見た目の魔物は残り4匹。
その内2匹は迷子犬を守るように座っている。彼の狙いはそちらの2匹ではない。先程、自らや少女を襲って来た2匹だ。
高速で移動する平真の動きに、その2匹の魔物は反応出来ない。
1匹は顔面を右足で横から蹴り飛ばされ地面を転がり、もう1匹は平真へ向けて鋭い爪を振り下ろす――が、そこに彼はもういない。地面に突き刺さった爪を引き抜こうと踠く魔物を横目に、平真は加速する。
地面に倒れた魔物への追撃――目にも留まらぬ速さで繰り出された平真の両の拳が、地面に倒れていた魔物にぶつかるのと、踠いていたもう1匹が地面から爪を引き抜いたのは同時……。
一撃、二撃、三撃――疾風の如く繰り出された彼の拳がぶつかった瞬間……魔物の体がまた煙のように消え去った。
◆
「ははっ!こっちだよハナ!」
口に咥えたボールを持っていく。
「本当にハナはボール遊びが好きだよね」
彼女は分かっていない。僕が好きなのはボール遊びではなく……。
そんな風に考えていると、近付いてきた彼女が僕の身体を少し乱暴に……だけど優しく撫でてきた。その度に僕は、嬉しい気持ちで胸がいっぱいになる。
それは笑顔が印象的な女性だった。
◆
「またかよ! 何なんだこれ」
再び脳裏をよぎる見たことのない記憶。それと同時に、温かな気持ちを平真と少女は感じ取っていた。
「へいま……」
「どうした?」
「へいまとあの子はどんな関係なの? さっきパンの耳がどうとか言ってたよね……?」
犬を指差しながら少女が質問する。
「関係?……っとあぶねぇ! あいつは依頼人の飼い犬で」
目の前にいる、飛び掛かってきた魔物を軽くいなしながら、平真が少女に答えを返す。
「毎週決まった日に家を抜け出すあいつを、探して連れ帰ってほしいと……依頼されたんだよ……ほっ!」
幾度も襲い掛かる鋭い爪を、横に躱しながら彼が続ける。
「で、逃げるあいつを追い掛けてたらお前の悲鳴が聞こえて、今はここにいる。それがどうしたんだ?」
「あの子の首輪にハナって書いてたの……」
「は?それってどういう?」
「今、私達が見たのはあの子の記憶だと思う……」
「は?」
驚いて動きを止めた平真に、魔物の鋭い爪が振り下ろされる。彼はそれを横から蹴り飛ばし、危うく難を逃れた。
「きっとそこにいるのを倒したら……またさっきみたいなのが見える……」
「マジかよ」
映像が見えるだけならば、不思議な体験ではあるが、平真や少女にとって何の問題もなかった。2人の体にも今のところ異常はない。だが……。
「あの気持ち悪い感覚がまだ来んのか」
心を無理やり開かれ、自分とは全く別の存在が見た映像や、感情を強制的に流し込まれる感覚。
自らがキャンバスの上へ綺麗に塗った色を、誰かに上から別の色で乱暴に殴り描きされたような……そんな体験をしたのは初めてだった。
(だけどよ……)
平真は少女を見た後、辺りを見渡す。不自然な程見通しの良いその場所には、彼が入ってきた扉しかない。その扉が開かないのは、先程身を以て知っていた。
途切れた地面の先にあるのは漆黒の闇。あそこに飛び込んだ所で、はい脱出!とはならないだろう事を、平真は何となく理解していた。
目の前には魔物が1匹。迷子犬の左右にいるのを合わせたらまだ3匹もいる。自分一人ならともかく、少女を抱えたまま、この訳の分からない空間を逃げ続けるのは不可能だろう。
残る選択肢は1つ……。
「かかってこいよ!」
平真が叫びながら一歩を踏み出す。魔物は彼に向かって飛び掛かりながら、幾度も躱された爪を振るうが、やはりかすりもしない。
正面から横に避けた平真は、犬のような見た目の魔物、その前足を両手で素早く掴み、相手の飛び掛かってきた勢いを乗せた背負い投げで地面に叩き付ける。
◆
――ゴーン、ゴーン。
とても大きな音が目の前で鳴っている。
「ハナ、ここで少し待っててね」
ここが自分の定位置。綺麗な建物を見上げながら、彼女を待つ。
ほんの少し待てば彼女は帰って来るのだ。
いつもそうだった。
だから僕はここでただ……彼女が帰ってくるのを待とう……。
◆
「今の音……」
「……っ! 残るはお前らだ」
平真は、自分の頭に入り込んだ何かを追い出すように頭を振りながら、迷子犬の左右にいる残った魔物に向かって走り出す。
瞬時に目の前へ移動した彼は、左の魔物を拳で殴り飛ばし、右は蹴り上げる。何故か迷子犬は、目の前で繰り広げられるその戦いに、驚いたり、吠えたりもせずに、とても落ち着いた様子だった。
まるで、それより大事な何かがあるように……。
残った2匹、その1匹が倒された。
◆
寒い……。
とても寒くて、冷たい……。
狭くて小さな入れ物からはみ出した体が、凍えるような風や、雨に当たる。
助けて……。
見上げて誰かを呼んでみても、何者もこちらを見てくれない。
寒いよ……。
誰か、助けて……。
「あれ?」
目の前に誰かが現れる。温かなその手が、凍えた体に触れた。
「君どうしたの?」
ふいに持ち上げられた自分の体に驚いていると、いつの間にか誰かがこちらを覗き込むように見ていた。
とても、とても優しい笑顔の女性……。
冷えた僕の体を、ぎゅっと抱きしめてくれながら、彼女はこう言った。
「うちの子になる?」
◆
「あーー!何なんだよ、これ」
平真は叫ぶ。彼が声を張り上げたのには理由があった……。
その瞳には涙が溢れている。だが、体は止めない。最後に残った魔物が反応するより先に、空へ高く飛んだ平真が、前方への回転を加えた右足の蹴りを、魔物の頭部に叩き落とした。
◆
「こんな事になってごめんね」
いつも通りの優しい撫で方。でもそこに普段の力強さはなかった……。
ベッドの上で笑う彼女の頬はこけている。首元にある十字のそれが、今の彼女を表すように鈍く光った。
「大好きだよハナ」
自分をゆっくりと撫でていた彼女の手が止まる。
いつまでもその時間が続けばいいと思った。だけど……。
そして彼女は、それきり動かなくなった……。
だから僕は待つのだ。
◆
「……」
目の前にいた脅威は全て取り除いた。だが、それなのに平真の心は晴れない。その理由が今まで見た映像……ビジョンとも呼べるそれのせいなのは間違いなかった。
「へいま……」
「……何だ?」
「私が起きた時に鳴っていたあの鐘には何の意味があるの……?」
「鐘? あー、あれは大教会で行われる礼拝の開始と終了を伝える合図で……」
「そう……。もしかして、あの子が逃げてたのは同じ方向じゃなかった……?」
「え? お前何でその事を知って?」
「私、分かったよ……」
少女がゆっくりと言葉を紡ぐ。それは大事な何かをゆっくりと包み込むような、穏やかで、それでいて優しい声音だった……。
「分かった!? お前もしかして」
「あの子が逃げる理由……」
少女のビー玉のような美しい瞳は、全ての謎が解けたと言わんばかりに光り輝いていた。
◇
「そうですか……」
少女から聞いた推理を平真が告げた後、迷子犬の依頼人である男は何かを懐かしむような表情をした後、とても悲しそうな顔を浮かべた。
「あいつに……会いに来てたんだな」
町の大教会、そこにある木の下で大人しく座った迷子犬……ハナを見ながら、ぶっきらぼうそうな男が呟いた。
「……友達だったんですよね?」
「はい。ハナは元は親友の飼い犬でした」
ハナが毎週決まった日に家を抜け出していた理由……。
それは以前の飼い主に連れられ、毎週行っていた大教会に向かう為だった。そこで待っていれば亡くなった彼女がまた帰ってくるとハナは思っていたのだ。
優しい笑顔でいつものように、また自分を撫でてくれるだろうと……。
「分かって貰えるか分かりませんが、ハナには少しずつでもあいつがいなくなった事を伝えたいと思います」
「分かってると思う……」
「はい?」
「あの子はきっと分かってると思うよ……」
平真から借りたぶかぶかの靴を履いた少女が、彼の後ろから顔を出して答える。
「きっとそれでも、自分の目でちゃんと確かめたかったんだと思う……」
少女が暴いた真実――迷子犬ハナの目的は、とても悲しいものだった。
だが……。
「ワォーーン!!」
暗くなった大教会に響いたのは――誰かを弔うような大きく、だけど優しい遠吠えだった……。
◇
「いやー、扉が開いて本当に良かったな!」
ハナを依頼人に届けた帰り道、おんぶをしている少女に平真が喋りかける。
魔物を全て倒し、ハナも捕まえる事に成功した平真と少女。だが、不思議な空間からは脱け出せずに、2人は途方に暮れていた。
そんな中、平真が意味もなく扉をガチャガチャしていた所、ドアが急に開き、気付けば元の橋の下に戻って来ていたのだ。
何故かその瞬間、今までそこにあった筈の扉も、その場から消え去っていた。
「礼拝が始まってから、終わりの鐘が鳴るまでどれくらい……?」
「へ? 確か大体1時間くらいだったと思うが」
少女の質問に首を傾げながら平真が答える。
「私達が出てきた瞬間に、またあの鐘の音が鳴ってた……」
「それで?」
「多分あれは、使うと1時間くらいは外に出てこれないんだと思う……」
「お前そこまで分かって……」
迷子犬の事も、あの空間で見た映像と感情、少しの情報の共有だけで、少女は真相へ直ぐに辿り着いた。そんな彼女に感嘆の声を上げながら……。
「……うん? 今使うとって言わなかったか?」
「うん……。多分あれは私が使った魔法なんだと思う……」
「はぁ?」
「目覚めてから周りを少しうろうろしてたら……。あの子を追い掛ける平真を見たの……」
驚く平真を尻目に、少女が話を続ける。
「それから、橋の下に戻ったらあの子が走ってきて……。首輪を見たらハナって書いてて……それで……」
「それで?」
「ハナちゃん、どうしてあなたは逃げてるの……?って聞いたら、急に私の体が輝き始めたの……」
「もしかしてあの悲鳴って」
「うん……。その時の……」
「マジかよ」
(魔法であんな空間作ったってのか? そんな魔法、今まで見たことも聞いた事も……いや、でも待てよ?)
平真は何かを考えるように顎に手を当てる。
「そうだ!」
「……?」
「少女!」
「なに……?」
「俺と2人で、名探偵を目指さないか?」
「めい……たんてい……?」
そして……。
戦う力はあるが推理力はからっきしな平真と、非力だが推理力はある少女。名探偵に憧れる彼と、記憶をなくした彼女。
凸凹な2人の出会いが、様々な事件の扉を開く。
最強の名探偵バディここにたんじょ……。
督促状
真明田探偵事務所様
弊社から借入された200万ルル、予定された期限1ヶ月までに支払われない場合、抵当に入れた真明田探偵事務所を明け渡して頂きます。
「は?」
「え……?」
「何じゃこりゃあぁぁぁーーー!!!!」
名探偵どころか、探偵という職すら失いそうな男がここにいた……。
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