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第七章 夢の痕
青にハイタッチした朝。
コンビニを出ると、冷たい風が首元から入り込んで体温を奪った。
「寒っ」なんて言いながら手を擦り合わせる。
それでも、胸の奥の温もりは消えなかった。
夢の余熱が、まだどこかに残っている。
触れられた感覚だけが、現実よりも確かで。
目が覚めたはずなのに、心だけがまだあの場所に置き去りだった。
そのまま仕事に向かい、メンバーが揃うまでの間、蓮のスケジュールを確認していた。カナダでの撮影は、ほぼ毎日行われているみたいだった。
また、おにぎりとか作ってあげられたらなぁなんて思いながら、いつのまにかソファーでうたた寝をしてしまった。
みんなの楽しそうな笑い声が聞こえて、目を開けるといつの間にか全員揃っていて、飛び起きると、康二が悲鳴にも似た声を上げて驚いた。
「しょっぴーおったんかいな。気付かへんかった」
部屋の一番奥のソファーで寝ていた俺に、誰も気付かなかったらしい。
亮平は、すっかり元気になった俺を不思議そうに見ていた。
「何があったらそんなに元気になるんだか……無理しないでね」
目を細めて優しく頭を撫でた亮平は、一瞬だけ険しい顔になると、俺の手首を掴み、楽屋を飛び出した。
非常階段の踊り場に立たされて、ようやく気付く。
……怒ってる。
「誰に付けられたの? 蓮がいないからって早速浮気? そんな子だと思わなかった」
亮平に指された人差し指の先は、昨夜、夢で蓮にキスマークを付けられた場所と、まったく同じ――左の鎖骨の上だった。
くっきりと色濃く残る、キスマークみたいなアザ。
それが、夢と現実の境をあやふやにする。
「あぁ……きっと昨夜、ベッドで寝なかったから……」
「何? また隅っこで蹲ってたの?」
コクリと頷く俺をよそに、亮平は呆れた顔でおでこを小突き
「しっかりなさい!」
とだけ言って、何事もなかったように楽屋へ戻っていった。
けれど、ドアの向こうで足音が少しだけ止まった。
俺はというと、ぶつけた覚えのないそのアザが気になって、トイレに駆け込んだ。
夢で蓮に付けられたキスマークとよく似た、色濃く残る痕にそっと触れると、昨夜の夢が蘇って、頬が熱くなる。
鏡の中の俺は、少しだけ目が潤んでいて、
それが夢のせいなのか、痕のせいなのか、分からなかった。
つねった頰はちゃんと痛かった。
——起きてるよな。
そう言い聞かせるみたいに、蛇口を強く捻った。
近くで、蓮が見守ってくれている――
そんな気がして。
ただのアザのはずなのに、どうしようもなく愛おしくて、
しばらく、その痕を撫でていた。
また、蓮に会いたくなった。
夢の中だけでも会えるなら、ずっと眠っていたって構わない。
そう思ってしまうほど、彼の笑顔が恋しくて、胸の奥が静かに疼いた。
フォーメーションが切り替わる。
次の位置へ移動するために、一歩踏み出した、その瞬間だった。
すれ違った誰かの動きに引き寄せられるように、距離が一気に詰まる。
ふわり、と。 鼻先を掠めた匂いに、心臓が跳ねた。
――蓮の、匂い。
あり得ない。
ここにいるはずがない。
そう思ったのに、身体だけが先に反応していた。
次の拍を、踏み損ねる。
「……っ」
足首が嫌な角度で沈み、
遅れて、鈍い痛みが這い上がってきた。
それでも、曲は止まらない。
俺は何事もなかったように姿勢を戻し、遅れた分を必死に取り繕う。
スタッフに言えば、きっと休ませてもらえる。
——それでも俺は、何も言わなかった。
これは、蓮との記憶だから。痛みごと、誰にも触らせたくなかった。
平気。そう言い聞かせながら、さっきの匂いを頭から追い払おうとした。
夢のはずなのに。
余熱が、現実まで連れてきてしまったみたいだった。
次の休憩で、慌ててトイレに駆け込み、足首を冷やす。
「ふふっ……懐かしいね、蓮……また、あの時と同じだ」
腫れ上がった踝が、蓮との記憶を呼び起こす。
初めて彼を好きだと意識したあの日。
痛めた足を誤魔化す蓮を、俺が必死に心配した、あの瞬間。
そのあと俺も足を痛めたっけーー
甲斐甲斐しく俺の世話をする、亮平に蓮はひどく嫉妬していた。
この足首の痛みすら、今は愛おしい。
そう――俺たちの物語は、そこから始まった。
あの頃に比べたら、
愛を知った俺は、ずいぶん臆病になった。
どこで付けたのかも分からないアザに縋ってしまうほど、 簡単に、心が揺れてしまう。
熱の残る鎖骨に、そっと手を当てる。
その奥で、お揃いの指輪が、かすかに光った気がした。
——朝にハイタッチした青の残光みたいに。
コメント
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いいじゃん、スゴク。このお話、好きだ。