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第八章 余白
何事もなかったみたいに日々は続いていく。
仕事をして、笑って、歌って踊って、帰って、眠る。
そのどれもが、ちゃんと回っているはずなのに、どこか一拍ずつ、ずれていた。
なかなか青にならない信号機。
それでも、待つことだけは、苦じゃなかった。
俺のこと避けてんの?
まぁいいけど――
待つよ君が気付いてくれるまで――
蓮からの連絡は、なかった。
忙しいのは分かっている。
カナダでの撮影が立て込んでいることも、時差があることも、全部、頭では理解している。
それでも、スマホを手に取る回数だけが増えていった。 通知が鳴るたび、条件反射みたいに画面を確認して、 違った、と気付いては、そっと伏せる。
既読も、未読も、どちらもつかない空白。
それが、思っていた以上に胸に来た。
そんな夜が何度巡って来ただろうか――
「忙しいだけ」
「そのうち連絡くる」
自分に言い聞かせる言葉は、日を追うごとに薄くなっていく。
代わりに残るのは、理由の分からない不安と、 夜になるほど、輪郭を持ちはじめる寂しさだった。
眠る前、無意識に鎖骨に手が伸びる。
あのアザはもう薄れているのに、 そこに触れるたび、蓮の気配だけが、やけに鮮明によみがえった。
腫れ上がって、確かに痛かった踝も、今では、どちらの足だったのかさえ曖昧になっていた。
少し押しては離した。右だっけ左だっけ?
日常は、ちゃんと戻ってきている。
それなのに、蓮との繋がりだけが、
静かに薄れていく気がして、気ばかりが焦った。
蓮といた部屋も、日を増すごとに彼の存在が薄くなっていく。
夢でもいいから、会いたい。
そう思って目を閉じるくせに、 目が覚めるたび、隣が空っぽな現実に、心が追いつかない。
部屋の隅に、膝を抱えて眠ってみたりもした。
枕の下には、蓮の写真を挟んだ。
誰にも見られないところで、少しでも近くにいたくて。
それでも時計の針は進んでいく。秒針を追いかけるように歩みを進める長針が、横目で俺を見ながら通り過ぎて行く。
置いていかれているのが、俺だけなんじゃないかと思うほど速かった。
それでも今日も、 スマホの画面を伏せて、 何もなかった顔で、また一日を過ごす。
「どうして夢に出てきてくれないの……」
時折流れるCMの蓮の声が、胸を苦しくする。
「ねぇ、痩せた? ちゃんと食べてる?」
訝しがって顔を覗き込んできた亮平は、垂れた俺の前髪を、そっと耳に掛けた。
「……ひどい顔してる」
肩を抱かれて、蓮が見たら嫉妬しちゃうね、なんて冗談を言われて、 慌てて笑って、離れて楽屋を飛び出しトイレに駆け込んだ。
本当は、泣きそうだったから。
今、誰かに優しくされたら、なんとか地面についている足さえ、支えきれずに崩れてしまいそうで。
それが、怖かった。
どうやって息してた?
なかなか上手く呼吸ができない。
ちゃんと笑えてる?
笑顔ってどうするんだっけ?
ピンポーン――ピンポーン
家に戻ると、一人きりの部屋に鳴り響く、インターホンの音に、耳を塞いだ。何度も鳴る音に反応できないまま、時間だけが過ぎていた。やがて音が止んで、部屋には、俺の呼吸だけが残った。しばらく、身体は動かなかった。
蓮でしか埋められないこのぽっかりと空いた孤独の穴は、誰にも埋められない。
「お願いだから出てきてよ……蓮」
何度眠っても、蓮は夢にすら出てこない。
ベッド脇の隙間に蹲る俺に、罵声を浴びせたのは亮平だった。
「何やってんのあんた!」
「どうやって入ったの?」
俺のことを心配してか、亮平に鍵を預けていたらしい。 亮平が何か言っている声を聞きながら、俺はただ頷いた。
声はちゃんと届いているのに、意味だけが、少し遅れて追いかけてくる。
心配されていることは分かるのに、その優しさが胸に触れるたび、少しだけ苦しくなる。蓮のいない場所で受け取る優しさは、どうしても、居心地が悪かった。
ちゃんと立っているはずなのに、足元が頼りなくて、世界が一歩ぶん遠い。
この部屋も、この時間も、確かにここにあるのに、
蓮だけがいないという事実が、静かにすべてを歪ませていた。
それを受け入れてしまったら、戻れなくなる気がして、 俺はまだ、何も分からないふりをしていた。
誰かの正しさにすがってしまう前に、 俺はまだ、蓮の名前を手放せなかった。
亮平は、俺の肩にブランケットを掛けてから、少し距離を取って床に座った。
触れすぎない、踏み込みすぎない。
それが彼なりの気遣いだと分かっていても、その慎重さが、今は少しだけ痛かった。
キッチンに立って、何かを温める音だけが、部屋に戻ってくる。レンジの低い唸り声が、現実をつなぎ止めるみたいに、やけにありがたかった。
「スープ。飲めそう?」
カップを差し出されて、両手で包む。
湯気が、視界を曇らせた。
ひと口含んで、やっと、身体の奥に熱が落ちていくのが分かった。
「……ありがとう」
声にすると、思ったよりちゃんとした音が出た。
それだけで、少しだけ安心する。
亮平は「どういたしまして」と軽く言って、スマホを弄り始めた。
無理に話題を振らない。
沈黙を、沈黙のまま置いてくれる。
その優しさが、胸の奥で静かに膨らんで、
同時に、蓮の不在を、よりはっきりと浮かび上がらせた。
「必要なら泊まるよ?」
「お願い…」
亮平はベッドには寝れないと言って床に座り、ソファーにもたれ掛かると、毛布に蹲った。俺は、誰かの温もりに触れたくて、亮平の手を握るとソファーの上で目を閉じる。
「一緒に居てくれてありがとう」
「焼肉奢ってね、可愛い子ちゃん」
そっと頭を撫でてくれた亮平の優しさに、歯を食いしばって泣いた夜。時々漏れ聞こえる声に、強く握り返してくれた亮平の手は優しくて、柔らかかった。スマホの画面を伏せて、深呼吸をする。
今日も蓮からの通知は、ない。
それでも待つことだけは、まだ、できる気がした。
幸せとは呼べないけれど、
不幸だと断定するほど、壊れてもいない。
蓮に送ろうとして、消したままのメッセージ。
画面に残った空白が、今ここにいる俺だけを浮かび上がらせる。
俺は今日も、その余白の中に立っている。
コメント
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ところどころ、マッキーを感じる。そして亮平💚が、優しい。
