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「常の如くの秋にて候、あぢきなからむ
是年の秋に非ず」
「新たなるもの来たると思ひてきたりけるを 昨年と変わらざりしものに」
「ついには「当然ね」と呟くるに至りしを、今や感じぬ。……」
夜はすでに更け、帳の内にただ一つ、燈火のみが揺らめいていた。清涼院の君は几帳の陰、静かなる息遣いで文を読みくだけ、細き指先が紙の縁をなぞっていた。耳を澄ませば、時折、風の音に混じりて庭の樹々がささやき合うばかり。心を沈めんとせしも、胸の奥には言の葉にもならぬ澱が残されていた。 その時、廊をゆく衣擦れの音、まことに忍びやかにして、室内の静寂を少しずつ押し開くように近づき来たり。扉がわずかに開き、影のように現れしは――兼正様にておわした。
彼の足取りは、まるで霧のなかを踏みしめるかのごとく静かにして確かなるもの。几帳の帷子を隔てて、清涼院の君の気配を察し給い、しばし言もなく立ち止まりぬ。
「このような夜に、独りで物思いとは、いと惜しゅうございます。」
「兼正さま?」
その声音、深き井戸の底より響くように低く、けれどもどこか懐かしさを帯びていた。清涼院の君はふと顔を上げ、几帳越しに気配を受け止める。
「この静けさが、いと心地よろしゅうて…誰にも乱されたくないと思うことも、ありましょう。」
微かに笑みを浮かべし言の葉、されどその裏には、長き沈黙と抑えがたき想いが隠されていた。兼正さまは几帳をめぐり、ついに君の前におわし、やおら座を占めて、優しきまなざしを向け給う。
「私も、夜の静けさの中、沈むような想いを胸に抱えて、あなたに会いたくなったのです。 」
沈黙。ふたりのあいだに流れる空気が、まるで時間を抱きしめるように緩やかに澄み渡る。その夜の静けさのなか、蝋燭の灯が揺れ、ふたりの影を壁に映した。まるでかつて交わした想いが、再び形をなさんとするかのごとく。
「この朝の静けさ、そなたの琴に添えぬかと、参じたり。」
ややあって、清涼院の君は、几帳のかたわらに静かに立ち上がり給う。衣の裾、さざ波のごとく揺れながら、手元に据えられたる箏のもとに歩み寄り、そっとその蓋を開き給えり。
「兼正さまは琴の音がお好きなのですね」
「清、お前の奏でる音色は本当に心地よいからな。何度聴いても飽きないよ。」
白き指先にて絃を撫で、爪の備えを改め給う様は、まるで早の風が柳の枝を整えるごとく、穏やかにして気高き所作なり。
その様子を、兼正さまは一言も発さず、静かに見つめ給う。やがて、音もなく几帳の前に歩み寄り、畳の上に膝を折り、そっと床に座しぬ。
そのまなざしには、ただ琴に向かい身を整える君の姿のみを映し、言の葉では伝え得ぬ情が、静けさのなかに溶け込んでいく。
燈火のゆらめくかなた、なお音は奏でられずとも、すでにその場には音楽の気配満ち始めぬ。ふたりを結ぶは、言葉にあらず、まさに琴の調べに託されんとする思いにてありき。
清涼院の君は、備えを終えるや、細き指にて静かに絃を撫で給う。最初の一音、まるで夜の水面に落つる一滴の露のごとく、室内にしんと沁み入る。やがて旋律は静かに流れ、言の葉に代わりて心の奥底を語り始めたり。
その音は、時にやわらかく、時に淋しく、まるで君の胸の内をそのまま映す鏡のように感じられし。兼正様は、言葉を挟まず、ただ黙してその響きに身を委ね給う。火影に照らされたその面差し、懐かしさと悔いとが入り混じり、幾度も言いかけては飲み込みし過去の想いを押し出さんとするような面持ちなり。
箏の調べの合間、風が障子を揺らし、燈火がわずかに揺れる。そのとき、君の絃の運びがふと止まり、静けさが戻りしなかで、君は低く、けれど明らかなる声にて言い給う。
「…この音が、過ぎし日々を悔いて聞こえましたなら、それはわたくしの未練の音にございます。」
その言の葉に、兼正様はわずかに視線を伏せ、しばしの間、胸中に満つる思いに耐え給いぬ。そして、静かに顔を上げ、細く息をつきながら応え給う。
「いや、それは、赦しの音に聞こえ申した。」
ふたりの間に流れる琴の余韻は、もはや音にあらず、心のなかに波紋のように広がる静けさにてありけり。
箏の音、余韻を残して静かに消えゆき、部屋を包むは灯と香のほのかな揺らぎのみ。しばしの沈黙ののち、兼正さまはそっと息をつきて、仄かに顔を上げ給う。
その唇より、やがて音もなく洩れ出でたるは、かの古歌の調べのひと節。言葉にあらず、旋律のみを頼りに、鼻唄として紡ぎ出で給う。
「和琴を爪弾きたまふ御姿を、幾度見奉りしことか。たびたびに、恋しさ増して胸ふさがりぬ。」
「言の葉をお紡ぎなさるさまを仰ぎては、あまりの愛しさに、心はただ、湧きたつばかりに候ふ。 」
歌の調子、かすかに、されど温かく室内に広がりぬ。それは懐かしき調べにして、遠き昔を想わせるような、柔らかき響き。風に乗せた想いのごとく、誰に届けるともなく、ただそこに在りし。
清涼院の君は、箏の上に静かに手を置き、その音を耳に留めて目を伏せぬ。その胸のうち、名を口にせずとも伝わるものがありぬ。
鼻唄の調べ、ふと途切れしその刹那、室内の静寂がふたたび満ちぬ。風の音もやみ、燈火の揺らぎさえ、今は心を潜めているかのよう。
しばらくして、清涼院の君はそっと顔を上げ、柔らかき声音にて言い給う。
「…今の節。どこかで聞きしことがあるような、されど夢の中のもののようにも思われまして。」
兼正さまは微かに目を伏せ、口元に薄き笑みを浮かべぬ。
「むかし、まだ若かりし折。庭に咲き初めし橘の下にて、そなたが琴を弾き、我がつい、口ずさんだ調べにて候。」
清涼院の君、驚きの色をわずかに浮かべ、その面差しに、過ぎし日の光がよぎる。
「…覚えておられたのですか。わたくしは、てっきり。」
「忘れようとした。されど、音だけは、胸のうちに残りぬ。」
その言葉には、過ぎた時の重みと 、今なお燻る想いのぬくもりとが、深く滲みていた。 しじまの中に、燈火の影ゆらぎ、箏の余韻すでに遠くなりし頃――。
兼正さまは、ふいに袂をそっと直し給うと、静かに立ち上がり給う。御座の畳に残る温もりすら振り切るごとく、その身は確かな意志を帯びて、ひと足、前へと歩み出でぬ。絹の裾が微かに鳴り、床の間に影を落とした。
その気配に、清涼院の君、薄く伏せし眼をそっと上げ給う。灯明の明かりに照らされしその面差しは、驚きというより、淡き不安と確かな決意とが交じりたる風情なり。
やがて、ためらいを押しとどめるように、低き声にて問いたまう。
「…どちらへ、行かれるのですか」
それは、ただの問いにあらず。去る者への名残と、動き始めた心に追いつかんとする祈りにも似た響き。静けさの底に小さき波紋が広がり、ふたりのあいだに、あらたなる刻の扉がわずかに開きたり。
「花の季節だと聞いてね、少し花を見に出かけようかと思って。」
と、兼正様は静かに応え給う。その声には、明らかなる言い訳を帯びながらも、どこか遠くを見据えた色がありぬ。清涼院の君はその言の葉に、小さく頷き、しかし微かに唇を動かし給う。
「もしよろしければ、わたくしにもその景色を感じさせていただけませんか?」
さりげなき問い、されど胸の底にて震ゆる覚悟を宿したる願いなり。ほんの少しでも、この夜の静けさを共に歩めたらと、そう思わずにはおられなかった。
兼正様は、一瞬、まなじりを伏せて、わずかに目を閉じ給いぬ。そして、そのまま言の葉を落とし給う。
「…そは、なりませぬ。」
その言は、決して刺すものにあらず。されど、静かに門を閉じるがごとく、拒む力を秘めたる響きなり。清涼院の君は何も言わず、ただその場にて、ゆるやかに視線を落としぬ。
遠くに灯る燈火の影が揺れ、夜の闇は、いっそう深まるように思われたり。
「まだ時期が少し早くて、そこまで楽しめるものではないかもしれないけれど。」
兼正様の応えは、さも事なげなる体にてありしが、そこにはどこかためらいと、言葉にせぬ何かを隠し持つ気配ありき。清涼院の君は、ふとその面差しを見つめ給う。まるで一緒に歩むことが、何か禍を呼ぶかのように。 心の奥に、かすかな翳り走りぬ。疑いというほど強きものにあらず、されど胸の中に、薄氷のごとくひやりとしたものが広がりたり。
しかしながら、君はただ黙してそれを問わず、やがて表情を整え、ひと息ついて言い給う。
「左様にございますか、それならば風の音にてそなたの歩みを思い浮かべましょう」
「お土産話を楽しみにしております。」
その声には恨みの色もなけれど、抑えられた想いが行間に滲み、まるで余白こそが心の叫びを映し出すように、静けさが重く降りそそぎぬ。
「……ああ、約束しよう。」
兼正様は、やがてわずかにうなずきて、背を向け給う。