1
「ねぇ先輩、“推し香水”ってあります?」
「……推し、香水?」
真帆は手を止めた。ランチのサラダをつついていたフォークが、少し宙で止まる。
向かいの席では、莉子がスマホを見せながら笑っている。
「この子の香水、めっちゃバズってて。つけてるだけで“垢抜け”るんですよ!」
「へぇ〜……」
相槌の声が少し遅れたのを、真帆は自分でも感じた。
「え、先輩知らないんですか? いい年してSNSとか見ないんですか〜?」
「“いい年して”って言葉、便利だね」
真帆が笑うと、莉子は一瞬びくっとした顔をした。
「え、ごめんなさい! 悪気なくて」
「わかってるよ。気にしてない」
でも、ほんの少し胸の奥がチクッとした。
“知らない”って、そんなにマイナスなんだっけ。
昔は知らないことを面白がる余裕があったはずなのに。
午後、デスクに戻った真帆は、窓の外の雲を眺めていた。
昼休みのざわめきが消えて、空調の音だけが静かに流れている。
スマホを開いてみると、莉子が見せていた香水の広告が流れてきた。
透明な瓶。ミントとホワイトティーの香り。
画面越しなのに、すこし息が軽くなる。
──知らないって、少し自由かもしれない。
帰り道、風に乗って誰かの香水がふわりと流れた。
真帆は小さく笑ってつぶやいた。
「うん、知らないままで、いいかも」
2
夜のコンビニ。
ガラス越しに、街の光がぼんやり滲んでいる。
「先輩、まだ信じてるんですか?」
レジに並びながら、佐久間が笑った。
彼の声は軽く、でもどこか本気の匂いがした。
「“ちゃんとやってれば報われる”とか、“人はわかり合える”とか」
「……まぁ、そういうの、信じてたほうが楽だからね」
真帆はおにぎりをトレーに乗せながら言った。
「でも現実は違うじゃないですか」
「違うね」
「それでも、まだ?」
レジ袋のカサッという音が、答えよりも早く響いた。
外に出ると、夜風が頬に当たった。
信じる、なんて言葉。
使い古されたシャツみたいに、もうほとんど形を失っている。
でも──。
街角で、誰かが転びかけた。
その瞬間、通りがかりの人が手を伸ばして支えた。
ほんの一秒。
それだけの光景が、真帆の胸に残った。
「まだ信じてるのかも」
「え?」
「“ちゃんとやってれば”とかじゃなくて、“誰かがそっと支える瞬間”の方」
佐久間は、返事をしなかった。
自動販売機の光が、二人の間を薄く照らしている。
「いい年して、まだ信じてるの?」
「うん。ほどほどにね」
風が少し冷たくなって、空には小さな星が一つ、光っていた。
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