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「タマ、急ぐわよ」
紗奈《さな》は、小走りに廊下を進んだ。
橘から借りて纏《まと》っている、衣が、非常に身動きがとりやすい。
女房姿の、袴に、打掛に、諸々重ね着の装束では、ここまで、身軽に動けなかっただろう。
「上野様、なんだか、弾けてますねー」
「身につけるもの一つで、こんなに、動きが違うとは、知らなかったわ!」
「タマなんか、なにも纏ってませんから、身軽ですよ!」
言って、ぴょんと、跳ねた。
「じゃあ、その身軽さで、先に、新《あらた》の所へ行って」
紗奈は、庭へ降りる階《かいだん》を、見た。
「あっ、タマは、渡り回廊の下をくぐって行きますから、上野様は、ぐるっと回って、来てください」
「あー、タマは、犬だもんねー、どこへでも潜り込めるわ。まったく、肝心な所へは、回廊が、繋がってないなんて。新には、大切なモノを、運び出すって、手がたりないって、それだけ言って。私も、すぐ、追い付くから」
はい、わかりましたー、と、タマは、言い捨て階を使うことなく、縁側から、ぴょんと、飛び降りると、屋敷の棟と棟を繋ぐ回廊の下へ潜り込み、姿を消した。
「あー、私も、縁側から飛び降りちゃおかしらって、言っても、けっこう、高さあるからなあー」
ぶつぶつ文句を言いながら、紗奈は、階を降りた。
橘達の住みかにもなっている、染め殿含め、新がいるはずの、調理場など、作業をおこなう場所は、屋敷の母屋部分から、離れた裏庭に、別棟として、個別に存在している。
作業の音や匂いなどが、母屋へ届かないようにと配慮されての事なのだが、まさか、こうも、あちこち、移動するとは思ってもいなかった。
女房職である、紗奈は、屋敷の内で、回廊伝いに、主の居場所を行き来していればよかっただけに、まさに、目が回る状態だった。
なにより、大納言という身分の屋敷となれば、その敷地は広大を越える。主である、守近は、正三位であるから、二千坪強の敷地を与えられていた。
はい、それじゃ、裏庭で、とも、おいそれと言えないのだった。
「あっ、しまった。下履《ぞうり》を、忘れて来た!もう、踏んだり蹴ったりね。裸足のままで、行くしかないかっ!」
紗奈は、そのまま裏庭にある、調理場へ向かった。タマの方が先に着くはず。ぼろを出されては、ならないと、懸命に走った。
そして──。
渡り廊下である、回廊の下に潜り込んだタマは、走り去る紗奈の姿を伺っていた。
「さあ、誰もおりませんよ。晴康《はるやす》様」
その声に、ひょこりと、例の人形が、顔をだす。
「タマの、背中にお乗りください」
コトコトと、人形は歩み寄り、タマの背中によじ登った。
「上手く、タマの、毛のなかに、隠れてくださいね。そして、しっかり、おつかまりください。全速力で、行きますから!」
言うと同時に、タマは、ダッと駆け出した。
さて、その頃、もう一人、下履《ぞうり》を忘れたと、愚痴る者がいた。
「ありゃー、外に内にと、行き来しておったら、結局、ハダシになってしもうたわ」
屋敷の正門前で、髭モジャは、野次馬に、言い訳のような事を言っていた。
あれから、牛だけではなく、吸い込まれるように、猫まで、それも、大量に、屋敷の中へと入っていったと、野次馬は、増えに増えている。
「おい、髭モジャ、なにやってたんだよ」
「俺たちゃー、ずっと、牛の番だせ?!」
野次馬の、怒りに、髭モジャは、頭を下げつつ、
「すまんのぉー、女房殿と、粥を食っていたのじゃ、許してくれ」
と、しおらしく、詫びた。
「はあーーーー?」
「髭モジャ、飯、食ってたのかのよっ!!」
「いやいや、ちょっと、待て。髭モジャ、紗奈に手を出したなんだって、橘さんと、揉めてなかったか?」
「おー!そーだったなあー!」
そりゃ、自分の女房の機嫌をとらなきゃいけねぇーわ、と、野次馬は、盛り上がっている。
その隙に、髭モジャは、門の前で横たわる、牛の、若の、耳元で囁いた。
「若よ、西門にいる、牛達を呼べ。そして、皆で、西市の裏路地へ、向かうぞ」
若は、髭モジャに、答えるように、もおー、と、鳴いた。