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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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露台の下で、波が石垣を打っていた。
広間からは、また次のワルツが流れてくる。何事もなかったように。
「それを種に」
冬馬様が、静かに言った。
「叔父上は、久遠寺の家から、金を引き出してきた。そうですね」
叔父様は、うなだれたまま、答えなかった。
「誰から、受け取っていた」
「……家令だよ」
叔父様は、吐き捨てるように言った。
「千鶴の葬式が済んで、ひと月ほどして、真柴に話した。崖道で、冬馬君のステッキを見たってな。真柴は、顔色ひとつ変えなかった。御前のお耳には入れずに、家のほうで内々に、と言いやがった」
叔父様は、乾いた声で笑った。
「それから、毎月だ。家令室で、帳面の外の金をな」
私は、去年の五月の家令室を思い出した。
障子の向こうから漏れてきた声。今月の分は、どうなってる。いつもみてえに。
これきりに、お願いいたします。御前には、私から申し上げておきますので。
あの日、真柴さんは、冬馬様に何を申し上げたのだろう。
冬馬様は、長いこと黙っていた。
「……宗介は、私を庇ったつもりだったのだろう」
低い声だった。
「叔父上の口を、金で塞いだ。私の耳に入れれば、私が叔父上を殴ると思ったのだ。あれは、昔から、そういう男だ」
私は、何も言えなかった。
毎朝、玄関で、帽子とステッキを差し出す白い指。いつも、穏やかに細められる目。
この人にとって、真柴さんは、そういう人なのだ。
けれど、帰りの人力車に揺られながら、私は、一つのことを考え続けていた。
叔父様が、崖道の男を冬馬様だと思いこんでいる限り、誰も、ほかの誰かを探さない。毎月の金は、叔父様の口を塞いだのではない。叔父様の思いこみを、二年のあいだ、大事に養ってきたのだ。
*
翌朝、百合絵様は、私の布団の上に乗って、私を揺り起こした。
「お義姉さま、起きて。叔父様は、どんなふうに転んだの。全部よ、全部」
私は、寝ぼけ眼で、金歯の蛭間と、転がった葉巻と、支配人の一言を話した。百合絵様は、手を叩いて笑い転げ、お鈴まで、襖の陰で前掛けを口に当てて肩を震わせていた。
けれど、露台の話は、しなかった。
冬馬様は、朝餉の支度をしながら、一言もしゃべらなかった。味噌汁の味が、いつもより薄かった。
朝餉のあと、別荘の縁側で、私は冬馬様に訊いた。
「あの日、旦那様は、このステッキを持って、会館へお出かけになりましたか」
冬馬様は、膝の上のステッキを見下ろした。黒檀の柄に、銀の家紋。
答えは、すぐには返ってこなかった。
「……あの日は、夕方から、空が暗かった」
冬馬様は、ゆっくりと、記憶をたぐるように言った。
「玄関で、宗介がいつものように、これを差し出した。夕立が来そうだったから、蝙蝠傘にすると言った。今日は、要らん、と」
冬馬様の指が、銀の家紋の上で止まった。
「宗介は、これを傘立てに戻した。私は、傘を持って、自動車で会館へ行った。パナマ帽も、かぶらなかった。会館の集まりには、山高帽だ」
「では、あの晩、このステッキとパナマ帽は」
「屋敷の玄関に、あったはずだ」
私は、ステッキを見つめた。
ステッキが、ひとりで鎌倉まで歩いてくることはない。
「誰かが、旦那様が出かけたあとで、玄関から持ち出したのです。帽子と一緒に。崖道で叔父様に見られたとき、旦那様だと思わせるために」
冬馬様の顔から、表情が消えた。
「持ち出せたのは、あの晩、屋敷の中にいた人だけです」
「叔父上は、背の高い男だと言った」
冬馬様が言った。
「叔父様は、崖道の分かれ道の、松の陰に隠れていらしたのです」
私は、昨日歩いた道を思い浮かべた。
「分かれ道から岬までは、上り坂です。低いところから見上げれば、誰でも背が高く見えます。それに、叔父様は、最初から旦那様だと思いこんで、見ていらした」
*
昼過ぎ、白い日傘が、坂を上ってきた。
麗子様は、縁側に腰を下ろすなり、煙草ホルダーを指に挟んだ。火は点けなかった。
「昨日の、叔父様の話。露台の陰で、聞いてしまったの」
麗子様は、海のほうを見たまま言った。
「あなたたちに、言わなかったことがあるわ」
「二年前の八月十四日。私、あのホテルにいたの。午後の四時ごろ、喫茶室で、千鶴さんに会った。偶然よ。あの子、町まで買い物に出てきたところだった」
麗子様の声が、少し掠れた。
「あの子、とても機嫌がよかった。今夜、東京へ電話をして、旦那様に明日来ていただくの、って。全部お話しするの。それが済んだら、麗子さんにも話すわ、って」
私は、膝の上で、指を握った。
日記の最後の頁と、同じだった。
「私、意地悪を言ったのよ。冬馬さんは、いつもお留守じゃないの、って」
麗子様は、ホルダーを、指の中でくるりと回した。
「あの子は、笑ったわ。大丈夫、お屋敷の電話室には、必ず誰かいるもの。ちゃんと旦那様にお伝えしてくださる方が、って」
麗子様は、そこで、ようやく私を見た。
「その晩に、あの子は死んだ。あの子が呼んだのは、冬馬さん一人よ。だから私は、ずっと、冬馬さんが来て、突き落としたんだと思っていた」
冬馬様は、柱にもたれたまま、何も言わなかった。
「警察は、もう事故だと決めていた。私が何を言ったって、あの子が自分で夫を呼んだ、というだけの話になる。……だから、黙って、雑誌に書いたの。白百合の名前で」
麗子様は、細い眉を寄せた。
「冬馬さん。あなたじゃなかったのね」
冬馬様は、答えなかった。ただ、ほんの少しだけ、目を伏せた。
麗子様は、日傘を取って立ち上がった。
「謝らないわよ。私は、私の目に見えたものを書いただけ」
それから、坂を下りかけて、背中を向けたまま、小さく付け足した。
「……でも、悪かったわ」
*
麗子様が帰ったあと、私は、座敷の座卓に紙を広げて、わかっていることを書き並べた。
真柴さんにもらった万年筆で。青い字が、一行ずつ黒く沈んでいく。
六時十分。千鶴さんの電話を、屋敷で誰かが受けた。六分。冬馬様には伝わらなかった。
東京から鎌倉まで、横須賀線で一時間二十分。六時半に屋敷を出れば、八時半には鎌倉に着く。
八時五十分。鎌倉の局で、誰かが、トウマ、と電報を打った。
九時五十分ごろ。パナマ帽と、銀の家紋のステッキの男が、崖道を上った。
ステッキと帽子は、あの晩、屋敷の玄関にあった。
電話を受けた者。
その足で、鎌倉へ来られた者。
玄関の傘立てから、ステッキを抜くことができた者。
ペン先が、紙の上で止まった。
その家の電話室にいた人なら、千鶴さんが何を話したか、聞いたはずよ。
フミさんの声が、耳の奥で鳴った。
最後の行に、私は、名を書けなかった。
冬馬様が、座卓の向こうから、その紙を見下ろしていた。
長い沈黙のあとで、冬馬様は言った。
「警察は、あのあと、屋敷の者が皆、あの晩どこにいたかを訊いて回った。叔父上の噂が、耳に入ったからだ」
冬馬様は、座卓の端を、指でとんと叩いた。
「宗介は、あの晩、九時に華族会館へ、書類を受け取りに来ていた。警察には、そう答えている。会館の来訪帳にも、名があると、警察が言った。私は、会館で宗介の顔を見てはいない。受付で受け取って、すぐ帰ったのだと」
冬馬様の声は、平らだった。平らすぎた。
「宗介は、あの晩、東京にいた。私は、そう聞いている」
左の眉を、指がなぞった。一度。二度。
「……ずっと、そう聞いてきた」
コメント
1件
うわ、核心に一歩ずつ迫ってる……! 真柴さんが「家を守るために口を塞いだ」のか「自分を守るために口を塞いだ」のか、もう分からなくなってきた。冬馬様が「ずっとそう聞いてきた」って言ったときの声のトーンが想像できて、胸がぎゅっとなる。麗子姐さんの「悪かったわ」は短いけど、二年分の重さがあった。次の話が待ち遠しいです……!