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第2話 月内部の森
夜の町は眠っているふりをしていた。
けれど、日向ユウの部屋だけは違った。
机の上で、種だった装置が息をしている。
緑の光が、弱く強く、弱く強く、心臓のようにまたたいた。
窓の外には月がある。
昨日まで、ただ遠くに浮かんでいたもの。
けれど今は違う。
あの裏側に森がある。
あの中に、有楽がいる。
ユウはパーカーの袖を握った。
スマホにはミハルからの短い文が残っている。
誰かが家に来た。
それから返事はない。
ユウは画面を見つめたまま、息を浅くした。
「リウ」
装置の中で光が集まった。
小さな粒の奥に、有楽リウの姿が浮かんだ。
灰色を帯びた羽。
緑と黄色の縦じまの尾羽。
静かな目。
行くぞ。
「どこへ」
おまえが見たがっていた場所へ。
ユウは窓を見た。
月が、少し近づいたように見えた。
「月……?」
リウは首を少し傾けた。
裏側ではない。
内部だ。
ユウは喉を鳴らした。
「ぼく、行けるの?」
接触種子が道になる。
「道って」
説明はあとだ。
今は靴を履け。
ユウは机の下から靴を出した。
家の中で靴を履くことに、少しだけ罪悪感があった。
けれど玄関を通る時間はない気がした。
階下は静かだった。
母の寝息も聞こえない。
まるで家全体が薄い膜に包まれているようだった。
装置がふわりと浮いた。
ユウの胸の高さで止まる。
透明な粒が開いた。
中から、細い緑の糸が伸びる。
一本。
二本。
何本も。
糸はユウの足元に広がり、小さな輪を作った。
逃げるなら今だ。
リウが言った。
ユウは笑いそうになった。
「逃げたら、ミハルは?」
知らないままでは済まない。
「じゃあ行く」
輪が光った。
床が消えたわけではない。
部屋も机もカーテンも、そこにあった。
けれどユウの体だけが、すっと別の流れに入った。
水に沈むのに似ていた。
でも濡れない。
落ちるのに似ていた。
でも地面がない。
胸がきゅっと縮む。
耳の奥が鳴る。
ユウは叫ぼうとした。
声は出なかった。
次の瞬間、足の裏に柔らかいものが触れた。
土だった。
ユウは膝をついた。
手をつく。
湿った土のにおい。
草のにおい。
水のにおい。
どこかで虫が鳴いている。
ゆっくり顔を上げる。
そこに森があった。
ユウは息を忘れた。
木々が天井へ向かって伸びている。
いや、天井という言い方が合っているのか分からない。
はるか上に、淡い光の川が流れていた。
枝と枝の間を、透明な小舟のようなものが静かに通る。
幹は太く、何人で抱えても足りないほどだった。
葉は重なり、緑の波になって広がっている。
遠くから水音が聞こえる。
滝。
川。
何かが羽ばたく音。
月の中とは思えなかった。
ユウは立ち上がった。
膝についた土を払うことも忘れた。
「ここが……月の中?」
そうだ。
リウは近くの枝にとまっていた。
画面の中ではなく、本物としてそこにいた。
ユウの胸が跳ねた。
思っていたより大きい。
ヨウムに似ている。
そう思った瞬間、リウの目が細くなった。
言うな。
「言ってない」
顔に出た。
ユウは口を押さえた。
「ごめん」
一度だけと言った。
「二度目は?」
月の外側へ置いていく。
ユウは本気か冗談か分からず、黙った。
足元で草が揺れる。
草の先に、小さな水滴がついていた。
月の中に、朝露のようなものがある。
それが一番信じられなかった。
「本当に森だ」
森だけではない。
リウが羽を広げた。
その向こう、木々の間に都市があった。
建物は地面から生えているように立っていた。
鉄で作られた塔ではない。
木の根と石と透明な素材が混ざり合い、枝のように伸びている。
窓は丸く、葉の間で小さく光っている。
地面には細い水路があり、その上を丸い乗り物が音もなく進む。
何羽もの有楽が飛び交っていた。
灰色を帯びた羽。
緑と黄色の尾羽。
それぞれ模様が違う。
細いしま。
太いしま。
波のようなしま。
ユウはただ見ていた。
誰も大声を出さない。
誰も走らない。
けれど森全体が働いている。
葉が光を受ける。
水が流れる。
有楽が行き交う。
装置が運ばれる。
すべてが音楽のように重なっていた。
「すごい」
その言葉しか出なかった。
近くの枝から、別の有楽が降りてきた。
リウより少し小柄。
淡い灰色の羽。
尾羽のしまは細かく整っている。
その有楽はユウの前に立ち、頭を少し下げた。
地球人、日向ユウ。
「はい」
震えた返事になった。
案内役のセナだ。
セナはユウを見上げた。
歓迎はする。
信用は、まだしない。
ユウは返す言葉を失った。
リウが横から言った。
正直でいい。
「いいの?」
有楽は飾らない。
セナはくちばしの先で、森の奥を示した。
歩きながら見ろ。
ユウは二羽の有楽について歩き出した。
土の道はやわらかい。
けれど沈まない。
ところどころに平たい石が埋め込まれている。
その石の内側には細い光が走っていた。
ユウが足を乗せると、光が一瞬だけ強くなる。
「これ、道なの?」
道であり、記録器でもある。
セナが言った。
誰がどこを歩いたか。
草がどれだけ踏まれたか。
水が足りているか。
すべて読む。
ユウは慌てて足を上げた。
「踏んだら悪い?」
踏むために作った。
「そうなんだ」
壊すために踏むな。
その言い方に、ユウの胸が少し痛んだ。
歩く。
森がひらける。
大きな川が現れた。
水は透明で、底の石まで見えた。
川岸には見たことのない花が咲いている。
緑の葉。
黄色い小さな花。
花の中央で、光の粒がゆっくり回っていた。
その上を、有楽の子どもらしい小さな個体が飛んでいく。
一羽がユウを見て、急に止まった。
そして近くの大人の後ろに隠れた。
ユウは苦笑した。
「怖がられてる?」
珍しいだけだ。
リウが言った。
セナはすぐに続けた。
危険とも思われている。
「そっちも正直だね」
有楽は忘れない。
セナの声は静かだった。
人間が森を切ったことも。
川を汚したことも。
生き物を消したことも。
ユウは足を止めた。
川の音だけが続いた。
「全部の人が、そうじゃない」
知っている。
セナはすぐ答えた。
だから、おまえはここにいる。
ユウはセナを見た。
セナの目に怒りはなかった。
けれど、許しもなかった。
長い記録をそのまま置かれているような目だった。
歩道の先に、大きな建物が見えた。
木の根が円を描き、その中心に透明な壁がある。
中には無数の小さな箱。
箱の中には種。
種。
種。
見渡すかぎりの種。
「ここは?」
樹種保管庫。
リウが静かに言った。
地球で消えた植物も、ここにある。
ユウは透明な壁へ近づいた。
中の箱には文字が刻まれていた。
ユウには読めない。
けれど、いくつかの箱には映像が浮かんでいた。
森。
草原。
湿地。
花畑。
もう地球にはない景色。
ユウは指を伸ばしかけ、止めた。
触れていいものではない気がした。
「これを、地球にまいてるの?」
一部だ。
セナが言った。
すべては戻せない。
戻しても、人間がまた壊すことがある。
ユウは拳を握った。
「でも、守る人もいる」
いる。
リウが答えた。
少ないが、いる。
「少ないって決めつけないでよ」
ユウの声が少し強くなった。
リウとセナが同時にユウを見た。
森の音が遠くなる。
ユウは唇を結んだ。
言いすぎたかもしれない。
でも、引っ込めたくなかった。
リウは枝に飛び乗り、尾羽を揺らした。
なら見せろ。
「え?」
人間が森と生きられると。
言葉ではなく。
記録ではなく。
これからで。
ユウは胸の奥が熱くなるのを感じた。
怒りではない。
怖さでもない。
もっと小さくて、折れやすいもの。
けれど確かにそこにあるもの。
「見せる」
声は小さかった。
でも森の中で、まっすぐ響いた。
その時、保管庫の奥で警告音が鳴った。
高い音ではない。
木の幹をたたくような、低い連続音。
セナが顔を上げた。
リウの羽が少し広がる。
なにかが透明な壁に映った。
地球。
その一部。
砂漠地帯。
そこに、小さな点がいくつも光っている。
セナの声が硬くなった。
枯れ敵の反応。
ユウは画面を見つめた。
砂の中を、何かが移動している。
丸い殻。
伸びる触腕。
地球の上を、ゆっくり這う影。
リウが低く言った。
早い。
セナがユウを見た。
人間との接触が知られた。
「ぼくのせい?」
違う。
リウはすぐに言った。
だが、おまえが始まりになった。
ユウは喉を鳴らした。
月内部の森。
有楽世界。
保管された種。
信用されていない人類。
そして、砂漠を進む枯れ敵。
全部が一度に押し寄せてきた。
ユウは透明な壁に映る地球を見た。
自分がいた場所。
帰る場所。
まだ何も知らない人たちが眠る場所。
セナが静かに言った。
日向ユウ。
「はい」
おまえは、見た。
森を。
有楽を。
そして、疑いも。
ユウはうなずいた。
セナの目が細くなる。
次は、選べ。
ユウは何も言えなかった。
選ぶには、まだ知らないことが多すぎた。
けれど知らないままでは、もういられなかった。
遠くで、月内部の森がざわめいた。
葉が揺れる。
水が流れる。
有楽たちが飛び立つ。
その音は、ただ美しいだけではなかった。
戦いの前に、森が息を整えている音だった。
ユウは胸元の接触種子を握った。
温かい。
まるで、まだ芽になっていない未来を握っているようだった。
月の中には森がある。
けれど、その森は誰も信じきってはいなかった。
人間のことも。
枯れ敵のことも。
そしてたぶん、有楽自身の選択さえも。
ユウは初めて、月の森が美しいだけの場所ではないと知った。
ここは、何万年も地球を見続けてきた場所。
何度も期待し。
何度も失望し。
それでも種を捨てなかった場所だった。
#異文明SF
柘榴とAI

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コメント
1件
お疲れさま!「月内部の森」めっちゃ良かったわ。設定の解像度が高くて、特に有楽たちの距離感がリアルで刺さった。ユウが「見せる」って言ったシーン、あそこガチ熱かったし、美しさだけじゃない森の空気感が伝わってきた。引き続き楽しみにしてる🔥