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#ワンナイトラブ
……よし。
一人、満足行くまでセッティングをして頷く。壁掛けの時計を確認すれば、定刻ピッタリなのでちょっと得をした気分だ。
エプロンを脱いで、音を立てないように慎重にドアを開けて、存在感を放つベッドへそろりと近寄る。
小さな寝息を立てて眠る彼、枕元に置かれたスマホはあと数分後にはけたたましい音で歌うのは知っている。
せっかく付き合ったんだし、スマホよりも先に起こしてみたいって密かな願望。やってみたら、怒るかな?
今まで1度も成功した試しはないけど、一回くらい成功してもいいよね。
だけどいざ起こそうとなると、寝顔すら神々しいこの人を起こすなんて烏滸がましいというか、勿体ないというか。
いつも私が先に寝るから、寝顔を見るのはこの時間しかない。朝から楽しみでもあるし、幸せでもあるので図らずも頬はにやけっぱなしだ。
……って、見惚れてる場合じゃない。
「常葉くーん……」
中座りして、ベッドの縁から顔を覗かせ名前を呼ぶけれど、やはり彼はピクリともしない。
だけどこれも予習済みなので、私の枕の上に乗る手をつんつんと指で遠慮がちにつついて「常葉くん、起きて下さい」と声を掛ける。指先はピクリと動くのに密度の高いまつ毛の囲う瞼は微動だにしない。
ベッドの上に顎を乗せて、むぅ、と、口を尖らせて、手から腕、腕から肩、とん、とん、リズミカルに登りつめて、頬にたどり着くとふよふよと触りながらひとつ、息を呑む。
「常葉くん朝だよ。起きて」
だけど、やっぱり彼は規則正しい寝息を聞かせるだけだ。
もうあまり時間もない。…………よし。
このやり取りは随分やってきているけれど、あくまでもこれは独り善がりの戦い。常葉くんに起こしてと言われたわけじゃないし、相手はスマホだし。
いつもはここで挫折して、白旗を翻す。
スマホは一発で毎朝常葉くんを起こしてるって言うのに彼女の私ときたら一度も起こせた試しがない。
だけどそろそろ勝ちたいので、今日はここで終わりにしない。
「と、き、わ、くん!」
言いながら、胸の前に落ちた髪の毛を耳にかけて、ベッドに膝を落として身を乗り出した。彼の顔のすぐ傍らまで近寄れば再び髪の毛が落ちるのでもう一度耳に掛ける。
………起きないと、知らないからね。
勘づかれないように、息を潜めて近寄って、距離がゼロになる───その瞬間。
すぐ側でベッドが小刻みに揺れて重い振動音が聞こえたと同時に、薄目だった瞳を見開き、すぐに後退りしてベッドから降りた。
そんな私を見計らったかのように、アラーム音が鳴り響いた。
ベッドの上の彼が解凍したように四肢がうごき、スマホを探し当てるとゆっくりとその瞳が開いた。
甘くタレ目がちな目元から覗く瞳は、焦点があったみたいに私を見付ける。
「…………何してんの」
「何でも……ないです」
「ふぅん、」とだけ言うと、常葉くんは大きな欠伸をした。
敗北感で肩を落としていると、そんな私を横目に常葉くんは部屋着に着替え始めた。
今日も朝から常葉くんだ……。
そんな様子にさえ目が追ってしまうし、すぐに口元が緩んでしまう。
リビングに戻ると常葉くんが椅子に掛ける前にセットしていたコーヒーを淹れて作っていた朝ごはんを用意した。
「今日、何作ったんですか」
「サンドイッチです。常葉くん、パン好きですよね」
「そうだけど…なんで分かるんですか」
「常葉くんの事、観察してますから!」
声高らかに告げると、常葉くんは甘い顔立ちから天使みたいな穏やかな笑顔を浮かべる。
同居が同棲に変わって、常葉くんは凄く優しくなった。
「堂々と宣言されても気持ち悪いだけですよ」
……なんて事は絵空事で、辛辣ぶりは変わらない。
「ひ、引きます?……重いですか?」
「大丈夫ですよ、俺も重くするんで」
「受け止めますよ!」
「……今はいいかな……」
それでも、やっぱり少しだけ優しくなったのかもしれない。
「雨、ひどくなってきましたね」
目覚めを知らないどんよりとした空からは、バタバタと弾丸みたいな音が鳴り始めた。
こんな大雨だとスーツが無傷では済まないだろうから、少しだけ憂鬱だ。
「乗っていきます?」
ネクタイを締める彼は、思ってもいない提案をするので「良いんですか?」と首を傾げた。だけど、こちらを向いた常葉くんはニヤリと意地悪な笑みを浮かべている。
「でもそうしたら一緒に出社することになりますねー。一緒のところ見られるの嫌なんでしたっけー?」
「い、嫌とは……誰も……言ってないです…多分」
力無く答える私を見て、常葉くんは可笑しそうに笑った。
あれから、ひと月が経った。
仕事場では内緒にしているし、必要以上に近寄らないようにしている。
だって、常葉くんと付き合っているなんて知れたら全女子社員の恨みを買いそうだ。考えただけで恐ろしい。
それに今でこそ随分とマシになったけれど、常葉くんの傍に居ると自然と頬が緩んでしまう。
付き合う前よりフィルターが掛かって、右目の麓にちょこんと乗る涙ボクロさえ格好良く見えるのだから、もうどうしようも無い。
しかし会社でそうなると拷問に等しい。
一度エレベーターで一緒になった時なんか、緩みそうになる顔を何とか止めたくて、太腿を抓りすぎて蚯蚓脹れになってしまった。
……能面辞めればいいんだけどな。
6年の積み重ねっていうのはなかなかに難しい。
会社でも少しずつ表情を出していくこと。それが今の私の課題だ。
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