テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#切ない恋
きなこもち
435
月銀澪
39,774
💮
1,258
ゑぬ。
1,183
同じ頃。
俊介は工事現場の休憩所で、自販機で買った缶コーヒーを片手にぼんやりと座っていた。
昨夜は家を出たあと、そのまま飲み歩き、帰宅したのは日付が変わってからだった。
朝もぎりぎりまで寝ていたせいで、スマートフォンをまともに見る暇もないまま現場へ来る羽目になった。
「おい、桜井」
向かいに座っていた同僚が、スマートフォンを片手に身を乗り出してきた。
「これ、お前の嫁じゃね?」
「は?」
差し出された画面を見て、俊介の眉が寄る。
そこには、見覚えのある一花の顔があった。
口元には薄くモザイクがかけられている。それでも、一花だと分かるには十分だった。
《○○区ストーカー放火事件の“被害者妻”、実は人妻デリヘル嬢だった》
「……なんだよ、これ」
「昨日から結構回ってるぞ。知らなかったのか?」
俊介は画面を奪うようにして受け取った。
風俗店の在籍ページを模した画像には、源氏名やプロフィールまでそれらしく並んでいる。
「違う」
「え?」
「こんなのデタラメだ」
俊介はすぐに言い切った。
一花とは高校時代からの付き合いだ。結婚してからの生活も知っている。風俗で働いていたなど、あり得ない。
「でも、写真まであるじゃん」
「作られたんだろ。今ならこんなの、いくらでも作れる」
苛立ちを隠せない俊介をよそに、周囲にいた同僚たちまで画面を覗き込み始める。
「でもさ、この放火した男とも前から知り合いだったって噂あるんだろ?」
「もしかして、客だったとか?」
「だから、違うって言ってるだろ」
俊介の声が低くなる。
けれど、一度面白い噂を見つけた人間たちは、簡単には口を閉じなかった。
「奥さん、この男と浮気してたんじゃねえの?」
「風俗で働くくらいだし、そういうこと好きだったんじゃないの」
「やめろって」
俊介が睨むと、何人かはようやく口を噤んだ。
その時、少し離れたところで話を聞いていた若い作業員が、遠慮がちに口を開く。
「じゃあ……今回の火事も、男女のもつれってことっすか?」
俊介が顔を上げる。
「何?」
「いや、だって……もしそうなら」
若い男は周囲の顔色を窺いながら、ぽつりと続けた。
「自業自得っていうか……」
次の瞬間、隣にいた年上の職人が、若い男の頭を軽くはたいた。
「馬鹿。さすがに言いすぎだ」
「いてっ……すみません」
若い男は気まずそうに頭を下げる。
周囲もそれ以上は何も言わず、休憩所に妙な沈黙が落ちた。
俊介はスマートフォンの画面へ目を落とす。
そこには、見慣れた一花の目元が映っている。
デタラメだ。そんなことは分かっている。
それでも――。
『自業自得』
その言葉だけが、妙に耳に残った。
仕事を終えた頃、俊介のスマートフォンが鳴った。
画面に表示された名前を見て、少しだけ顔をしかめる。
「……もしもし」
『俊介? 今、大丈夫?』
母・和子の声だった。
その声音には、心配よりも先に苛立ちが滲んでいる。
『一花さんのこと、なんか今いろいろ広まってるらしいじゃない』
「……母さん、SNSとか見るタイプじゃないだろ」
『私は見てないわよ。ご近所さんから聞かされたの』
「……何を聞いたんだよ」
『何って、風俗で働いてたとか、放火した男と前から知り合いだったとか』
『そんな話、ご近所の人から聞かされて……もう、恥かいたわよ』
俊介の眉間に皺が寄る。
「恥ってなんだよ。あれは全部デマだ」
「一花は風俗なんかで働いてない」
『でもねぇ』
和子は納得していない様子で声を落とす。
『火のないところに煙は立たないでしょう?』
「だから、作られた話だって言ってるだろ」
『じゃあ、どうして一花さんだけが狙われたの?』
俊介の言葉が止まった。
『何もない人が、あんなふうに執着されるものなの?』
『悠真ちゃんまであんなことになって……本当にかわいそう』
「……悠真のことは関係ないだろ」
『関係あるわよ。あの子まで巻き込まれてるんだから』
和子の声が少し強くなる。
『あなたまで、この先ずっと一花さんのことで人生を台無しにする必要はないのよ』
『まだ若いんだから、ちゃんとした人とやり直せばいいじゃない』
「……何言ってんだよ」
『俊介、私はあなたのためを思って——』
「もういい」
俊介は乱暴に通話を切った。
しばらくその場に立ち尽くしたまま、暗くなったスマートフォンの画面を睨む。
腹が立っている。和子にも、面白半分に噂を広げる連中にも。
それでも、一度耳に入った言葉だけは、簡単には消えてくれなかった。
『じゃあ、どうして一花さんだけが狙われたの?』
俊介は目を閉じる。
一花が風俗で働いていたなんて、あり得ない。
高校時代からずっと見てきた自分が、一番よく知っている。
――それなのに。
なぜ、水野は一花にあそこまで執着したのか。
胸の奥に生まれた小さな疑問が、嫌な形で残り続けていた。
コメント
1件
うわあ…これ、じわじわくる展開だね。俊介が一花を信じてるのに、周りの言葉とか母親の「火のないところに煙は立たない」ってやつが少しずつ心に刺さっていく感じ、すごくリアルで胸が苦しくなった。「自業自得」の一言の重みとか、読んでてムカつくし切ないし…。デマってこんなふうに人を追い詰めるんだなって突きつけられた気分。続きがめちゃくちゃ気になるわ🔥