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第5話:ある裏取引の現場にて
午前10時。都心の高層オフィスの応接室。
スーツ姿の男が、ガラス越しに外を眺めていた。
ヘアスタイルは完璧に整えられ、濃いグレイの三つ揃えに光沢のあるネクタイ。
顔立ちは整っており、40代前半、表情に疲れは見えないが、口元の動きが固い。
木下真澄(きのした・ますみ)。
大手IT企業の執行役員であり、近日予定されている“ある契約”のリスクに備えた依頼者だ。
「明日、交渉に出ます。
ただ……先方が“こちらの命を狙ってくる”可能性がある、と耳にしました。
それが本当か、確かめたい」
向かいにいた男――イタカは、身じろぎひとつせず座っていた。
今日はシャープな黒のジャケットに、グラファイト色のシャツ、ネクタイなし。
髪は束ねず、耳を出す形で流し、輪郭がいつもよりくっきりと浮かんでいる。
目元の陰に、ここ数日で増えた傷の名残があった。
「了解しました。
あなたの立場、服装、表情、使用予定の言葉と呼吸のリズム――すべてコピーして、
先方と“交渉”を行います」
「俺と同じ動きをするって、簡単に言うけど……」
「“死ぬ可能性がある”から、依頼されてるんですよね」
淡々とした声に、木下の視線がわずかに揺れた。
イタカは、黒革のポートフォリオを開き、書類を丁寧に並べた。
すでに筆跡用のテンプレートには、依頼者の署名スタイルが模写されている。
【代行体験契約書:S.P-1252】
依頼者:木下真澄
内容:裏交渉の実地シミュレーション
想定リスク:暴力・毒物・拘束・言語トラップ
再現形式:交渉記録音声+映像記録+感情ログ
記録対象:命を狙われる“感覚”と“選択の瞬間”
生存プラン:言語戦略+離脱経路案付き
「リスクレベルは“高”。
ですが、私はこの種の緊張感、かなり好みです」
イタカは、資料に指を滑らせるようにして、目を細める。
「殺意は、独特の湿度があります。
それを体内で感じ取るのは、ちょっとくせになりますね」
木下は、半分冗談だと思って乾いた笑いを返した。
だが、イタカの目は冗談ではなかった。
「あなたの代わりに“脅され、試され、殺されそうになる”体験を、私はやってきます。
……結果として、死んでも記録は残ります」
「助かる可能性は?」
「あなたなら、助かる道筋はあります。
私は“あなたなら何を言うか”まで、考えて動きますから」
翌日、港区の高級ホテル地下会議室。
イタカは、木下のスーツスタイルを完璧に模倣し、交渉席に座っていた。
3人の相手の表情、手の動き、視線のバランスを観察しながら、会話を進める。
「……では、先日の件については、こちらとしても非公開を条件に――」
「その件について、まだ“話す準備”が足りてないように見えるんですが?」
男のひとりが言葉をかぶせ、室温が一気に下がる。
視界の片隅で、もう一人の男がジャケットの中に手を入れた。
反射的に、イタカの手が、脇の資料を掴む動きを見せる。
その一瞬で、相手の指が止まる。
交渉は、その後形式的に終了した。
だが、イタカの中には確かに、“死の選択肢”が浮かび上がっていた。
ホテルを出てから彼は、空を見上げ、深く息を吐く。
「……殺す気は、“あった”。
ただ、すぐに殺すつもりじゃなかった。
いい、ねじれ方してるなぁ……」
苦笑しながら、首筋にできた汗を拭った。
木下のもとに届いた記録ファイルは、厚紙の黒いパッケージに収められていた。
開封すると、中には:
映像(3カメアングル)
音声記録(ノイズ解析済)
イタカ自身の**“死の分岐予測ログ”**
そして最後に、手書きのメモ。
> あなたが“話す準備”を整えていなければ、
今回、命を落としていたのは間違いありません。
言葉とは、ナイフより速く、銃より強く、そして静かに効きます。
“次回”はないように。どうかご注意を。
イタカは、地下鉄のホームで缶コーヒーを開けながら、肩を鳴らした。
「やっぱり交渉って、楽しいな。
殺されそうなタイミングの呼吸が、喉の奥に残る感じ、癖になる」
電車が風を連れてやってくる。
彼の表情は、静かに笑っていた。