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𒄆𒈞𒋨 ጓደኛህ ነኝ 𒀱 𒂝
#オリジナルストーリー
逃げ切った、はずだった。
恒一は路地の奥で足を止め、そのまま壁に背中を預けた。呼吸が整わない。胸が苦しくて、吸っても空気が足りない感覚が残る。走り慣れていない体には、さっきの全力疾走がそのままのしかかっていた。
しばらくは声も出なかったが、ようやく喉の奥からかすれた音がこぼれた。
「……なんなんだよ、これ」
視線を上げると、ミヤはすでに周囲を見ながら警戒していた。
あれだけ動いた直後だというのに、息も乱れていない。呼吸も、立ち方も、何もかもい落ち着きすぎていて、同じ状況にいたとは思えなかった。
「今のところは、来てないみたい」
その言葉に安心するはずなのに、なぜか余計に落ち着かない。静かすぎるのだ。音がない路地はさっきよりも広く感じられて、どこか現実からずれているような気がした。
「いや、そういう問題じゃなくて……君、疲れないの?」
「慣れてるから」
あっさり返されて、恒一は言葉に詰まる。
「何に慣れてるんだよ」
問い返しても、ミヤはそれ以上説明しなかった。ただ、軽く肩をすくめるだけだ。
足元に黒猫が寄ってくる。さっきまで同じ距離を走っていたはずなのに、こちらも平気な顔をしている。
「お前もだよ……」
恒一は思わずつぶやいた。人間の自分だけが、明らかに場違いな疲れ方をしている。
「そんなこと気にしても、無駄だよ」
いきなり背後から声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは見知らぬ男だった。足音は聞こえなかった。気配も感じなかったはずなのに、距離は近い。逃げようとすれば動けるはずなのに、足が思うように動かない。
その男はスーツ姿で、姿勢に無駄がない。年齢は恒一とそう変わらないように見えるが、空気が違う。静かに立っているだけなのに、距離を取らないといけないと感じさせるものがあった。
「……誰だよ」
警戒をにじませながら問いかけると、男はわずかに視線を細めた。
「名乗る必要はない」
返ってきた声は平坦だった。怒っているわけでも、威圧しているわけでもない。ただ、そこに感情がほとんど乗っていない。それが妙に怖かった。
「感じ悪いな……なんなんだよ、お前」
思わず出た言葉に、男の表情がわずかに動いたが、それ以上の反応はなかった。
そのあとで、ミヤが口を開く。
「ソウタ」
名前を呼ばれた男は、静かにミヤを見た。
「やっぱりお前か」
「久しぶりって言うべき?」
「必要ない」
短いやり取りが交わされる。その内容は頭に入ってこないのに、明らかに初対面ではないことだけは分かる。
恒一は二人を交互に見た。
「ちょっと待て。知り合いなのか?」
「まあ、そんな感じ」
「説明は?」
「あとで」
「そればっかりだな!」
思わず声が大きくなる。
だが、その瞬間だった。
一気に空気が変わる。
さっきと同じ、張り詰めるような感覚が路地裏に広がった。
恒一は言葉を飲み込む。理由は分からないが、何かが来ると体が先に理解していた。
路地の入口に、白い手袋の男が立っている。
さっき部屋で見た相手だ。
「……嘘だろ」
逃げ場はない。
そう思ったときには、ソウタが一歩前に出ていた。
動きに迷いがなかった。まるで最初からそうするつもりだったかのように、自然に一歩踏み出す。
「下がっていろ」
短く言い残して、距離を詰める。
採集者の腕が振るわれる。あの透明な輪だ。触れたものの”ラベル”を奪う、得体のしれない力。
だがソウタはそれを避けなかった。
真正面から受け止める。
硬いものぶつかり合う音が、狭い路地に強く響いた。
恒一は目を見開いていた。ソウタの手の中にも、同じように空気を歪ませる輪があった。
押し返す動きに無理がない。力任せではなく、流れのまま崩しているように見えた。
採集者の体勢がわずかに揺れる。
距離が詰まる。
視界が一瞬だけぶれた。
その直後、採集者の姿は消えていた。まるで、最初からそこにいなかったかのように。
音が戻る。
遠くの車の音や、水の滴る音が、遅れて耳に入ってくる。
恒一は動けなかった。
何が起きたのか、理解が追いつかない。考えようとして、途中で止まる。頭の中にあるのは『消えた』という事実だけだった。
視線が自然とソウタへ向く。
何もなかったかのように立っている。それが、いちばん現実感を失わせた。
距離を取ろうとした足がもつれ、体がうまく動かない。
「……は?」
口から出たのは、それだけだった。
間の抜けた声が、自分のものに聞こえない。
「……いや、ちょっと待て」
言葉が続かない。目を離せない。
「……今、何した」
やっとそれだけ言えた。
聞きたくないのに、聞かずにはいられない。
「外しただけだ」
「……何を」
「ラベルを」
その単語が引っかかる。
意味は分からないのに、妙に重く残る。
どうやら、ソウタは敵ではないらしい。
膝の力が抜け、恒一はその場にしゃがみこんだ。
「……終わりか?」
「一人ならな」
「……それ、まだ来るってことだろ」
自分の声が遠く聞こえる。心臓の音がうるさい。
顔を上げると、ソウタは周囲を見ていた。まだ気を抜いていない。
さっきの動きが脳裏から離れない。
自分は何もできなかった。
逃げることしかできなかった。
「……おれ、完全に邪魔だな」
言葉がそのまま落ちる。
ミヤが振り返った。
「そんなことないよ」
「あるだろ」
目をそらさずに言う。
ソウタが口を開く。
「できるかどうかは関係ない」
恒一とソウタの視線がぶつかる。
「やるかどうかだ」
短く言い放つ。
それでも、さっきまでの自分の動きが思い起こされる。
逃げた。
「……なんだよ、それ」
「そのままだ」
それ以上は続かない。
ミヤが笑う。
「いいこと言うね」
「別に」
「素直じゃないな」
「うるさい」
軽いやり取りが、張り詰めていた空気をゆるめる。
恒一はゆっくり立ち上がった。
足はまだ重い。でも、動く。
「……なあ、ミヤ」
「なに?」
「おれ、もう無関係じゃないよな」
ミヤはうなずいた。
「完全に巻き込まれてる」
「だよな……」
逃げるなら今だ。そう思う。
それでも、足は動かなかった。
黒猫が足元に寄ってきた。その目を見たとき、視線を外す気にはなれなかった。
「……じゃあ」
恒一は息を大きく吐き出した。
「やるしかないか」
ソウタがこちらを見た。
「後悔するぞ」
「もうしてる」
すぐに返す。
ミヤが笑う。
三人と一匹が、同じ方向を向く。
ここから先に進むしかない。
もう、戻れなかった。