テラーノベル
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足音も会話もなく、ただ階数表示の数字が降りてくる音だけが響いていた。
家を出た瞬間から、会長はずっと視線を落としたままだ。
横顔には、言葉にできない何かを噛みしめている影が滲む。
その沈黙が、廊下の空気をさらに冷やしていた。
チン、と機械的な音が鳴り、扉が開く。
無言のまま乗り込む。
ドアが閉じた瞬間、空間が狭くなった気がした。
エレベーター内は、重苦しい。
ただ静か、ではない。
さっき耳元で突き刺された母親の言葉が、まだ鼓膜に残って離れない。
「余計な事、しちゃダメよ。将来の為にね」
喉元に、その「余計な事」の定義が刺さり続ける。
エレベーターの鏡に映った自分の顔が、想像以上に硬く強張っているのに気づき、目を逸らした。
降下するにつれ、数字がひとつずつ落ちていく。 まるで、さっきまであった温度や色が、そぎ落とされていくように。
1階に着き、扉が開く。
外気が流れ込むはずなのに、胸元の息苦しさはそのままだ。
「それにしても……佐久間の母親、そっくりだったな。驚いたよ」
エレベーターを降りた直後、岩本先生がぽつりと言った。
「うん母さん、そっくりだって昔から言われてたよ」
「やっぱりかぁ~……そりゃそうだよな。顔があそこまで似てたら、小さい頃相当可愛がられただろ。自分に似てる子って、愛着沸くもんだし」
その言葉に、佐久間はゆっくりと首を横に振り否定した。
「……ううん」
岩本先生が眉を寄せる。
「……可愛がられてなかったのか?」
「だって……母さん、自分以外の【女】が嫌いなんだよ」
淡々と言ったのに、声は少しだけ掠れていた。
その意味を理解するまでに数秒かかった。
「物心つく前からさ、オレは【男の子】として育てられてきた。でも、体つきは成長するにつれ、どうしたって男の子じゃないだろ?だから……『なんでオレだけ兄弟と違うんだ』って、悩んでた時期も、あったんだよ」
(どう足掻いても、男になれないんだなって、諦めたのはつい最近だけど)
言葉は淡々としているのに、
そこには長い時間を一人で抱え込んだ傷がにじんでいた。
「佐久間……」
岩本先生の声が、掠れる。
その瞳ははっきりと潤んでいた。
佐久間は肩をすくめ、微笑とも諦めともつかない表情を浮かべる。
「でも、もう仕方ないし。今はちゃんと受け入れてるよ。母さんがオレを嫌いでも……まぁ、いいかなって」
強がりではなく、悟りにも似た静けさだった。
深澤先生も、会長も、言葉を挟まない。
ただ、揺らぎのない温度で、見つめていた。
否定でも慰めでもなく、
そこに存在している事実ごと、受け止める眼差しで。
一呼吸する。
いつもより今日は疲労感が重くのし掛かった。
歩いていく姫の背中を追うように、マンションを後にした。
夜風を吸い込む。
肺に入った空気が、ひどく重い。
疲労というより、胸の奥に沈む鉛のようだった。
「ふっか先輩……俺、涙止まらない……」
「だから先生って言えっての。ほら、ティッシュ。
いい加減泣き止め。生徒の前なんだからさ」
岩本は深澤の肩に寄りかかり、深澤は呆れた声で言いながらも、その手は優しくティッシュを押しつけていた。
……距離感が近い。
(ちょ、待て。今その絵面はダメだろ……)
(BL脳、発動すんなオレ……!)
心の中で頭を抱え、現実に戻った時には、
会長はすでに前を通り過ぎていた。
迎えの車へ、無言のまま乗り込むところだった。
「あっ……会長、何も言わず帰るのかよ!」
思わず走り寄る。
会長は扉に手を掛けたまま一瞬だけ動きを止め、
何かを取りに車内へ戻り
次の瞬間、静かにこちらへ向き直る。
ラッピングされた一輪の花を、差し出された。
「……これ、オレに?」
問いかける声は自分でも驚くほど震えている。
会長は、ただ一度、深くうなずいた。
「……うわぁ、綺麗だな。
オレ、初めてだよ……花、貰ったの……」
言葉が溢れて止まらない。
「母さんに花束渡してるのを見てさ……
ずっと、羨ましかったんだ。
だから……余計に……ほんと、嬉しい……」
会長は返事をしない。
ただ、表情ひとつ変えず車へ乗り込んだ。
「じゃあな」
ドアが閉まる。
エンジンが静かに唸り、車は動き出す。
──後部座席の俺は振り返らない。
背もたれに沈み込み、視界がじわりと滲む。
フロントミラーの中で、俺の顔は歪んでいた。
しばらくして突然、見えなくなったのを不審に思ったのか
「坊っちゃん!? 大丈夫ですか!」
運転手が慌てて振り向く。
「……大丈夫だから、俺に構うな」
短く吐き捨て、視線を窓へ向ける。
流れる街の光がガラスを走り、
その反射の中に映った自分は泣いていた。
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#すの~まん