テラーノベル
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その日の仕事を終え医局へと戻ると、出発の時間までまだ余裕があった。自宅へ帰ろうか迷ったが、緋真がいない家に帰っても意味がないと、パソコンを起動させた。
明日学会にて発表する資料を確認し、最終チェックを兼ねて発表のシミュレーションを繰り広げる。専門医の維持の為にも、定期的に学会での発表の場が設けられている。もちろん準備は通常業務とは別で行う必要があるので、なかなか時間を作るのは大変だ。ただこの研究については自らが望んで続けているため、苦ではなかった。
ひととおり問題ないことを確認し、一休みする。無心になったあと、すぐに頭に浮かぶこと。最近では専ら、緋真のことばかりだ。
――今夜は別々か。緋真も俺がいなくて寂しいと思ってくれているだろうか。
まるで初恋を拗らせた少年のように、彼女に恋焦がれる。そして次に思い浮かべたのは、温泉で見た緋真の背中だった。
彼女が負った熱傷は、深達性(しんたつせい)Ⅱ度に分類される。この熱傷によって形成され未だ存在感を残す肥厚性瘢痕(ひこうせいはんこん)は、熱傷の範囲から見ても、切除は困難。そして植皮によって色濃く残る瘢痕と色素沈着は、今更内用薬や外用薬を使用したところで気休めにしかならないだろう。
現実的なのは、ステロイド注射と複数のレーザーを使用しての治療か……。どこまで元に戻せるかもわからないし、骨の折れる治療になるな。
近年、熱傷等を原因とする肥厚性瘢痕やケロイドへの治療はかなり進歩し、様々な治療を組み合わせることで完治できる病態も増えた。それでも、緋真の背中が完璧に元通りというわけにはいかない。事故から時間が経っているのはもちろんのこと、それくらい広範囲に事故の爪痕が残されているのだ。
本人に頼まれたわけでもないのに、可能な治療法について熟考していると、入口の扉が開く。視線を向けると、予想外の人物に咄嗟に姿勢を正した。
「やあ、神花先生。お疲れ様。よかった、まだ発っていなくて」
「院長、お疲れ様です。……どうかされましたか?」
こんな時間にわざわざ医局に顔を出すなんて。雰囲気から察するに、自分に用があったことはすぐにわかった。
「娘のことでね。最近神花先生に迷惑かけてないかい?」
「迷惑、と言いますと……」
先日、彼女にきつい物言いをしたことを思い出し、身構える。
「最近家でも上の空というか、様子がおかしくてねぇ。仕事でもミスしてないか心配してたんだよ。本人と話そうにも時間が取れなくて」
「そう、ですか。業務上は特別問題ありませんよ。よくやってくれてます」
言い切ったあとに、敢えて“業務上”を付けたことを後悔する。
しかし白鷹院長は言及することもなく、安堵したようだった。
「いやぁ、恥ずかしながら娘はだいぶ甘やかしてしまったからね。うちで働かせるときは心配したんだが、迷惑をかけていないならいいんだ。体調もここしばらくは安定しているみたいだし」
白鷹院長には、息子が二人。その下に年の離れた娘の白鷹さんが一人と聞いている。紅一点に加え病弱となれば、彼女が人一倍可愛がられて育てられたことは容易に想像できるし、彼女自身の性格からも感じていた。
「ただ、何かあったら遠慮なく叱ってくれて構わないよ。神花先生には不思議と懐いてるようだから、君の言うことならちゃんと聞くだろう」
「……承知しました」
白鷹院長からすれば、懐いているように見えるのか。俺たちのやりとりを見ていないのだから、仕方ない、か。
緋真とのことは、あれから何も問題にはなっていない。料理教室へも来ていないようだし、今ここで伝える必要もないだろう。
「悪かったね、時間をとらせてしまって。新幹線の時間は大丈夫かい?」
「いえ、最終なのでまだ余裕がありまして。別の作業をしておりました」
「そうか。相変わらず熱心だね。明日の発表の準備かな」
院長がちらりとパソコンの画面へと視線を下ろす。
否定をすれば何かを察したのか、「奥さんのことか」と頷いた。
「……申し訳ないね、私が力不足だったばかりに」
「そんなこと仰らないでください。あの時の処置は今考えても最善で――」
「あの頃は、ね。ただ今ならもっと良い治療ができただろうとたまに思うんだ。それもこれも、神花先生のように研究熱心な方たちのおかげだが。本当に君には脱帽するよ」
「……恐れ入ります」
これまで絶えず研究を続けている分野、それは主に熱傷に関するものだ。もともと白鷹院長の専門も形成外科であり、大学時代彼が学会理事を勤めている熱傷学会にて“再会”を果たして以降、気にかけてもらっていた。
「私にできることがあれば協力するから。あまり根詰めないように。明日の発表も頑張って」
「はい、ありがとうございます」
「それじゃあ、奥さんにもよろしく伝えてね」
白鷹院長は、軽く手を上げて去って行く。
彼がここまで俺を気にかけてくれる理由――それは言うまでもなく、緋真の火傷のことを知っているからだろう。そして、俺が形成外科医を志したきっかけもすべて。だからこそ彼に医師になる理由を伝えたときから、俺が責任感で押しつぶされてしまわないか気にしてくれているのだ。
緋真には言えなかった、医師になりたいと思った理由。それは紛れもなく、緋真のためだった。きっかけは、彼女と初めて出会った日まで遡る。幼いころの記憶なんてほとんどないのに、あの日のことだけは今でも昨日のことのように、ずっと脳裏に張り付いているのだから。
#恋愛
ばたっちゅ
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コメント
1件
わあ…!第20話、すっごく沁みました😢💕 伊織先生の視点で、緋真ちゃんの背中の火傷のこととか、医者になったきっかけとか…重くて優しい気持ちが伝わってきました。 特に「緋真のためだった」っていう台詞、胸にグッときました😭🌸 幼い日の記憶が彼を今に導いてるんだなあって思うと、尊すぎて叫びたくなります…!次も楽しみにしてますね✨