テラーノベル
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秋の深まる昼下がり、真珠に秘められた貴婦人アギノアはドーロアゴールの街でユカリたちの魔導書の封印探しに付き添っていた。力になれることなどほとんどないが、噂に耳を傾けるくらいのことは出来る。とはいえ、元々口数の少ない土地柄に、この季節だ。通りを行き交う人々は寒風に僅かな熱を奪われまいと縮こまっており、毛皮の襟の隙間から零すのは白い吐息くらいのもので、人の声はあまり聞こえない。
そんな折、ユビスのいない最後尾を歩くアギノアの目の前で、レモニカが不意に振り返る。
「右手、どうかなさったのですか? 怪我、ですか?」と声を潜めて尋ねられる。
失礼にならないように苦心していることは表情からありありと読み取れた。訊くか否かずっと迷っていたのだ。
「どうして、でしょう?」アギノアもまた小さな声で、答えにならない答えを呟く。つまりしらばっくれようとした。
しかし一度訪ねた手前レモニカも引き下がれなくなっている。
「庇っておられるような、隠しておられるような風に感じました。わたくしの勘違いでしたら申し訳ありません」
レモニカと手を繋いでいるソラマリアにも会話は聞こえているかもしれないが、一切振り返ることはなかった。随分気を遣ってくれていることに少し引け目を感じる。
アギノアは観念した風におずおずと右手を前に出した。いつの間にか右手の指先にひびが入っていたのだった。その黒い罅の隙間から魂が抜け、昇天してしまうのではないか、とアギノアは恐ろしい思いを抱き、誰にも言えずにいたのだった。
「まあ!」と囁き声で驚きつつ、レモニカは皆の視界に入らないように動く。「痛みはございますか?」
「いいえ、ご心配なさらないでください。何も苦痛なんて。ただ、私自身の肌ではないとはいえ、なんだか恥ずかしくて」とアギノアは本心混じりに嘘をついた。
「真珠質の経年劣化、でしょうか」とレモニカは申し訳なさそうに呟く。「光のせいか、空気のせいか」
「かもしれませんね。地上に帰還してから随分経ちましたので」とアギノアは答える。「ですが、いくら劣化しようとも光や空気のない世界よりはずっとましです」
それは本当であり、嘘でもあった。
旅が楽しかったのはヒューグのお陰だったのかもしれない、とアギノアは考えつつあった。口には出さない正直なところ、旅に疲れ果てていた。死した肉体にはもはや苦痛も疲労もないが、魂は乾くばかりだった。その上、ヒューグは大王国の王子に捕らえられているかもしれない、という話だ。百年以上の昔、女神パデラに仕える巫女として生きていた時代、シグニカに大火をもたらし、アギノアを焼き殺した大王国への恐怖は今なおアギノアの暗い魂に刻まれている。
「そうですわ。良いものがあります」と言ってレモニカは懐を探る。そうして取り出したのはレモニカの着ている衣の端切れのようだった。「美しい布地なので取っておいたのです。真珠質が零れ落ちないように巻き付けてはいかがですか? この布地なら真珠に飾ってもきっと見劣りしませんわ」
「ありがとうございます」レモニカの気遣いに恐縮しつつ布地を受け取り、右手の人差し指の先に巻き付ける。
黄蘗色の毛織物に青白い樹状模様の布では罅に罅を巻いているようなものだが、見方を変えれば罅も美しく見えるものだとアギノアは感心する。
物静かな街ではあったが、しかしよくよく耳を傾けていれば様々な噂が飛び交っていた。遥か東の国で極悪な魔女が隕石を落としたとか。遥か西の国で――ライゼン大王国しかないが――竜が蘇ったとか。遥か北の国で――ガレイン連合内ということになるのでそれほど遠くないが――妖精が子供を連れ去ったとか。中にはガレインより最も遠い遥か南の海の島々の嘘か本当か分からない戦火の情勢までもが行商人の儲け話と共に旅して来ていたが、一行の興味を引いたのはまさにこの街の丘の上に鎮座する廃城、シグス城の噂だ。城にお化けが出るだとか、訪れた者の罪を暴くだとか、裁くだとか。そして彫像が動き回っているだとか、だ。
「これってアギノアさんのこと?」と噂を聞いたユカリに尋ねられる。
「いいえ、たぶん違います」とアギノアは答える。「この噂は私がこの街に来た時にはすでに市井を巡っていましたから」
その噂は否応なく、アギノアの探し人、ヒューグを思い起こさせた。まさにヒューグは青銅像に憑依しながら生きた人間のふりをしていた霊だったからだ。
ヒューグの熱い魂は既に青銅像から抜け出している。再び同じような青銅像に憑りついている可能性もあるが、ユカリたちの追っている魔導書が貼られている可能性の方が高い。過度に期待してしまわないようにアギノアは自分自身に言い聞かせた。
シグス城は一部の壁が崩れ、堀は埋め立てられ、蔦に覆われつつある。王政の頃には華々しい威容を構えていた城も、打ち棄てられ、略奪され、空っぽになった有り様は魂が抜けたようだった。いわば城そのものが亡霊のようだ。
シグス城にたどり着くとすぐにユカリが足跡を見つけた。何の変哲もない靴跡との判別がアギノアにはつかなかったが、普通の人間にしては地面に沈みこんでいるという。つまり重いということだ。
城の周囲も散策するが足跡以外には何も見つからなかった。僅かに開いた城門の前まで戻ってくる。
「噂の通り、動く彫像がいるのは確かなのだろうが、どうにもちぐはぐな印象だ」とソラマリアが懸念を呟く。
「ちぐはぐ、ですか?」とアギノアはその意味を探る。
「どういう意味?」とグリュエーはすぐに尋ねた。
「城に隠れている癖に噂になる程度は目撃されて、足跡もしっかり残しているところかな」とユカリが答える。「機構や私たちから逃れたい使い魔ならこんなことはしないだろうね」
「封印の使い魔だとしたら、救済機構の魔法少女狩猟団だということでしょうか」とレモニカは推測する。
「自由にはなったけど使い魔自身に何か個人的な目的がここにあるのかもしれないよ」とベルニージュが補足する。
そしてヒューグである可能性はほとんどなくなる。目的のためなら多少は手荒な真似をするが、親しくなった者には損得勘定抜きで行動する男だった。そして何より自由を愛していた。このような古城に引き籠る生活を選ぶとは考えにくい。
「さて、後は中に入るだけだけど、どうする?」とベルニージュが意見を求める
「一網打尽が狙いか、戦力分散が狙いか」とソラマリアが使い魔の思考を推し測る。
「何人か残るにしても、ユカリは城に入るんでしょ」とグリュエーが断定的に言う。「相手もそれは分かってると思うな」
「全員……」と呟いたレモニカがはっとして問いかける。「除く者さんはどちらでしょうか? 姿が見えませんが」
アギノアもユカリもベルニージュもソラマリアもグリュエーも顔を見合わせ、除く者の封印はもちろん、魔法少女狩猟団団長シャナリス自身がどこにもいないことを確認する。
「宿でユビスを見てくれてるんじゃないの?」とグリュエーが誰にともなく尋ねる。
ユカリとベルニージュもそう思っていたようだ。
「ユビスは宿の馬丁に預けましたわ」レモニカは答えを求めるようにソラマリアに視線を向ける。
「今朝方には見覚えがあるのですが」とソラマリアが言い訳でもするように申し訳なさそうに答える。「しかし城へやってきた頃には見た覚えがありませんね」
「除く者さんじゃなくて、本体のシャナリスが何かの拍子に封印を剥がして逃げた?」ユカリが呟く。
「だとしても魔法少女狩猟団団長が獲物を捨て置いたわけだから脅威はなさそうだね。まあ、一人では何もできないだろうし」と言ってベルニージュは苦笑する。「ユカリは無事として、魔導書は?」
ベルニージュの呼びかけで各々が預かっている魔導書を確認する。ユカリも白紙文書に収められた魔導書の数を数える。
「大丈夫。除く者を除いて全部揃ってる」
「だがきな臭いな」とソラマリアが呟く。「城の噂に関連しているだろうか」
「わたくしとソラマリアで除く者さんを探して参りましょう。あるいは辺りに潜んで何かを企んでいるやも」とのレモニカの提言に反対する者はいなかった。
自分は戦力にならないはずだ、とアギノアは言うべきか迷ったが、皆分かっていることだろうから黙っていた。
大理石の敷き詰められた玄関広間にはいくらか雑草が入り込んでいるが、埃と土埃に覆われてなお往時の絢爛たる輝きの一端を残していた。いくつかの立派だった柱には蔓草が這い、精妙だった階段は苔生し、美麗だった扉は腐っている。
足を踏み入れた途端、足音が高らかに響いた。高い天井に反響しているのが誰の足音なのか分からない。全員が立ち止まり、耳を澄ます。
「あそこ!」
ユカリが指さした先、二階の通廊を人影が横切ったが奥へと引き込んでしまう。
誰からともなしに足早に人影を追う。階段を駆け上がり、人影の消えた先へ。そこにも廊下が伸びており、左右に三つずつの巨大な壁龕に、六つの人間大の青銅像が並んでいる。アギノアには、ヒューグがかつて憑りついていた青銅像にどこか似ているように感じられた。
「さすがに騙されないよ」とユカリがそこに誰かが潜んでいるかのように声をかける。
が、青銅像は沈黙を保っている。
皆で見張り、ベルニージュが率先して青銅像を一つ一つ検めるが封印は見つからなかった。
その時、今度はほぼ全員で声を上げる。廊下の先に、先ほどまでいなかったはずの青銅像が突如現れた。今度はこちらへと立ち向かってきて、剣を抜きさえした。
「分かりやすくて助かるよ」と呟いたベルニージュが両腕から炎を巻き起こし、向かってくる青銅像に浴びせかける。
他の誰も動かない。ベルニージュだけで対処できると信じているからだ。実際、青銅像は剣を振り下ろす前に豪熱によって両足を溶かされて倒れた。
改めてベルニージュは青銅像に貼られているだろう封印を探す、が目当ての物はなかった。
つまり青銅像が封印の魔導書以外の原因で動いていたということだ。そう気づいたと同時に今度は六体の青銅像が壁龕から飛び出してきた。
アギノアも魔法少女に変身できないユカリも逃げ惑う他ない。グリュエーの起こす風が三人を補佐し、早々に囲みから脱すると、ベルニージュの炎が六体の青銅像を一挙に焼き尽くした。
「一体誰の仕業なの?」とユカリが辟易した様子で言った。
「とりあえず一旦城から出ようか」とベルニージュが提案する。
と、同時に、まるでベルニージュの提案を拒むかのように城全体が地鳴りのように響き出す。
「壁が動いています!」というアギノアの悲鳴に押されるように全員が必死に駆け出す。
左右の壁が侵入者を圧し潰さんと迫っているのだ。元来た廊下を走って戻り、一階に降りた頃にはすぐ左右に壁が迫っている。城のあちこちから何もかもが圧壊する激しい音が鳴り響く。まるで地の底から生者を羨む死者の呻き声のようだ。
しかしこの場合、最も羨まれているのは死者の癖に地上を歩いている自分かもしれない、とアギノアは考える。
なんとか全員が欠けることなく城門から飛び出した。
これほど必死に生きようとしたのは死んでから初めてのことかもしれない、と気づき、アギノアは含み笑いをする。
城はさらに変形を続け、このガレインに伝わる巨人のような姿になった。城壁に囲まれた敷地は広々とした空地になり、その中心に城だったものが人の形をして、しかし複雑な角を被り、天高く聳えている。
「この城自体に封印が貼ってあったんだね」とベルニージュが城の巨人を見上げて言った。
そしてその持てる炎の術でもって意志持つ城を処理する。
「焼け跡を冷やす魔術はないの?」黒炭の上に漂う蜃気楼を遠巻きに眺めながらユカリが愚痴を零す。
「冷たい雨でも降らそうか?」とベルニージュが答える。
「水蒸気で余計に探すのが難しくなってしまいそうです。私、熱は平気なので先に探して参りますね」とアギノアは申し出る。
「でも変色しちゃうんじゃ?」とグリュエーの心配をよそにアギノアは首を横に振る。
「それだけのことです。こうしている合間にも麓から野次馬が集まってきてしまいますし」
アギノアはそう言ってばらばらになった城の焼け跡に踏み入る。熱だけではない。生身の体では煙に肺の内側から焼かれることだろう。
皆にそう言った手前、アギノアは早く見つけようと急ぐが、積み重なった瓦礫の下に封印があったなら全員でかかっても数日かかりそうだ。
その時、アギノアは不思議な光景に気づく。何もかもが真っ黒焦げな中でまるで何事もなかったかのように青々とした草花の生えている箇所があった。それも緑を愛する妖精の築いた舞台のように綺麗な円を描いている。
そこはシグス城の中庭の一部で、城が巨大な人型になった際に中庭もその体に組み込まれたはずだ。そして当然ベルニージュの炎に巻かれただろう。にもかかわらず生き延びた草花の元へアギノアは赴く。
その円の中心に見覚えのあるものがあった。もはやこの時代には失われたという信仰、女神パデラの偶像だ。実際のところ、アギノアが百数十年ぶりに地上に解放されてから、パデラ神への信仰を見たことはない。アギノア自身、地上にやって来てからパデラ神の巫女としてその信仰を実践などしていなかった。ただ一度、ヒューグにその信仰の輪郭を伝えた時以外は。
偶像は元々柱の基部に彫り刻まれていたもののようだが、頭部を残してベルニージュの炎によって割れて崩れたようだ。もしやと思い、アギノアは偶像を検めると、その後頭部に封印が貼られていた。雲のような形の札に巨大な鳥の絵が描かれている。
その時、右手の人差し指の先に巻き付けていた布が外れかかっていることに気づき、誘われるように城門の方に視線を向ける。
これだけの騒ぎになってレモニカもソラマリアも未だ姿を見せていない。
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