病院から会社に戻った後、熱いお茶を飲もうかと給湯室へ行ったことを、麗はさっそく後悔した。
この会社の給湯室は噂をするためにある場所なのだ。この前と同じ女性社員の声が聞こえる。
「新しい役員、格好いいよねー。何がいいって顔がいい」
「ああ、須藤役員ね。あんたきっとハゲデブ親父だって言ってたじゃん」
「まさか、あんなイケメンとは! 悔しい、もっと早く出会いたかった!」
「ばーか、あんたなんか相手にされないって」
「なにをー!」
ゲラゲラと笑いながら噂をする彼女達の邪魔はしづらく、麗は回れ右をしようとした。
「そういえば、イケメン今度、勤怠システム変えてくれるんでしょ? この前資料来てたけど、使いやすそうだった」
「社食の業者も変えてくれるらしいよ」
「やった! 今まで入ってた業者は、前の社長にリベート渡してたから不味くても変えられなかったって専らの噂だったもんねー」
そうだったのか、あれのやりそうな事である。
「問題は……」
「よりによって麗音様を捨てて……」
「あの妹と結婚したことだよねー。しかも今社長でしょ! 器じゃないっての!」
「ねー。何でだろ?」
「それは、あれよ、出来ちゃったのよ」
「やっぱり?」
「妹、いきなり社長になった上に全然出てこないし、つわりとかあるんじゃない? それで、前社長が産まれてくる孫可愛さに麗音様を追い出したのよ」
「なにそれ、っていうかそもそも麗音様と婚約しておきながら、他の女に手ぇ出しちゃう?」
「普通なら出さないけど、きっと妹が夜這いしたの」
(それ、なんて官能小説?)
婚約者の実家に遊びに行き、勧められるがまま酒を呑み過ぎて、強かに酔っぱらって泊まらせてもらった夜。
客間で寝ていた明彦が重みを感じて目覚めると、婚約者の妹の麗が腹の上に乗っていた。
『れい…ちゃん?』
そこにいる筈のない麗の存在に明彦は目を疑った。
『明彦さん…わたしっ』
何ということだ。
思い詰めた顔をしている麗の温かな手が明彦の体をまさぐり、生き霊ではないことを示す。
『いけないよ、ボクと君は義理とはいえ兄妹になるんだ…!』
明彦は麗を説得しようとするが、麗は止まらない。
計画していたのだろうか。夕食時に何度も酒を注いでくれたのは麗だった。
『わかってる。でも、お願い、今夜だけっ!』
潤む麗の瞳を見て、女の涙に弱い明彦ははっきりと抵抗することができなくなった。
『ああ、だめだ、れいちゃん』
口ではそういうが、女より強い男の腕力で止めようとせず、されるがままだ。
それは、酔っぱらっているからだけではないことが明彦にも麗にも分かっていた。
『お願い、今夜だけっ!ずっと、好きだったの!』
『れい、ちゃんっ!』
その夜から三月後。
明彦は麗に避けられていた。
あんなことがあったのだ、無理からぬ事だ。
もともと麗は大人しい質だし、気まずいのだろうと、明彦も今日まではわざと話しかけなかった。
だが、最近の顔色の悪さだけは看過できなかった。
元より、フェミニストの気がある明彦に一度抱いた麗を放置しておくことなどできないのだ。
『麗ちゃん!』
明彦は佐橋の家を訪ねた。しかし、廊下で出会った麗は明彦を無視して足早に去っていこうとする。
『ちょ、待てよ』
麗の腕を掴んで、強引に振り向かせた。強引すぎたせいか勢いよく回転した麗は転びかけて空いた手を護るように腹を庇った。
それだけで、明彦にはわかった、わかってしまった。
『妊娠したのか……?』
麗の目がゆっくりと見開かれていく。
そして顔を反らし、小さく首を振った。
『麗ちゃん、ボクを見ろ』
両手で麗の肩を掴み、無理矢理見つめ合う。
それでも麗は目を伏せ、床を見ている。
『ボクの子なんだね……』
『……ち、違うの。この子は私、ワタシだけの、私だけの! 赤ちゃんなの!』
最初は蚊の鳴くような声で、次第に決意に燃える母の顔となり言い切る麗に、明彦は切なくなった。
麗の初めての男は明彦だ。ほかの男の子供なわけがない。
『馬鹿だな……』
明彦は麗を強く抱きしめた。
悪阻が酷かったのだろう。ただでさえ薄かった体が更に薄くなっている。
『二人で育てよう』
『そんなこと……駄目よ。明彦さんは姉さんの……姉さんの婚約者なのに!』
『元々、麗音とは別れようと思っていたんだ。麗ちゃん、君を愛していると気づいたから!』
『でも……』
『麗、お腹の子の父親にならせてくれ』
『いいの……?』
『いいんだ、麗』
『……明彦さん』
『麗』
『明彦さん!』
『麗』
『明彦さん!!』
みたいな感じだろうか。タイトルをつけるならば、
『義妹と呼ばれたくないの~婚約者の妹に迫られた官能の夜~』だ。
麗は頭を振った。
馬鹿馬鹿しい上に、内容が貧弱な妄想をしてしまった。
更に言うと、妄想の中で自分を美化して、劇画調の巨乳美人にした事も反省しなければならない。
麗は己の腹を撫でたが、宿っているのは脂肪だけだった。
麗の頭の中で、美人でセクシーな産婦人科の女医が長い足を組みながら、大きくてよく動く元気な脂肪ですよー。と誉めてくれる。
「あの、先輩方は部署が違うし、話したこともないから知らないでしょうけど、佐橋さんはそんな人じゃないので、そういうのやめてくださいよ。真面目で優しい人ですよ、ドジだけど」
突然聞こえてきた、営業二課に所属している大卒で年上の同期である五木の声に麗は驚いた。
給湯室にいたんだ、と。
そうか、麗がいなくなったせいで、お茶汲み業務に部署では一番年下になった彼があてがわれてしまったのだ。申し訳ない。
ドジと言われたことはさておき、庇ってもらえて麗は嬉しかった。
「女をわかってない、わかってなさすぎー!」
「ああいう大人しくて地味な女が一番怖いんだってー」
「ホント、女を知らないよねー」
同期が総攻撃を受けていて、麗は重ねて申し訳なくなる。
己を大人しいと思ったことはなかったが、確かに社内ではこれといって目立つ仕事はしていなかったし、飲み会も、給料が安いので節約したいのは勿論だが、あれの娘が参加していたら、皆が本音で会話できず楽しめないだろうと、送別会以外は参加しなかったので、社内に友人もいない。
(ありがたいけど、申し訳ないな……。どうしよう)
そのとき、ちょうど明彦が遠くから歩いてきているのが見えた。
会社のために頑張ってくれている明彦に彼女達の陰口を聞かせるのは忍びないので、麗は明彦に会釈だけして、給湯室に入り、彼女達に気まずい思いをさせた。