時計の針が進んでゆく。
かちかちかちかちと、ゆっくりと、しかし確実に、『12』の数字をめがけて進んでゆく。
そしてようやく、待ちに待ったこの時刻……二十二時、ようはバイト上がりの時刻にさしかかる。
俺は、ためらうことなくレジの脇にある機械にタイムカードを通すと、帰宅の準備をするために、早足で、されど慌てずに、あくまでも冷静さを装いつつ、店の裏手にある事務所兼休憩室へと、歩を進める。
「あ、鈴木さん、お疲れー」
休憩室に入ると、同じアルバイトの女の子、菊井さんが声をかけてくる。
菊井さんは、ちょうど今しがた着替えを終えて更衣室から出てきたみたいで、その茶色がかった長い髪を、かわいらしいパステルブルーのシュシュでひとまとめにしている。
「お、お疲れー」
俺は、そんな菊井さんを見たり見なかったりしつつエプロンを取り、『使用済み』と書かれた箱の中に放り込む。
「今日はお客さん少なかったね。すごく楽だったし」
「まあ、平日のファミレスなんて、こんなもんじゃない?」
「だね。夕方なんて学生ばっかだったし」
ところで、と言い菊井さんが俺を見てから、鞄から取り出した自分のスマホをいじり始める。
「鈴木さんってこのあとあいてる? 山田さんたちが飲んでるみたいで、合流しないかって誘われてるんだけど、よかったら一緒にどう?」
「飲み会?」
飲み会……菊井さんと飲み会……正直、かなりいきたい……いや、でも、しかし…………。
「……ご、ごめん」
「予定ある?」
「うん。実は……」
カチリと、頭の中で、スイッチの切り替わる音が聞こえる。
するとどうだろう。ほとばしる思いが、言葉が、大好きという気持ちが、まるで始まりの村に押し寄せるゴブリン・スタンピードがごとく、なだれ込んでくる。
……先ほどまで、あんなに心が揺れ動き、葛藤していたというのに。
「このあとは、そっこう家に帰って、そっこうシャワーをあびて! そっこう飯の準備をして!! 今期期待の春アニメ、『女神さまに頼まれたから仕方なく異世界の勇者になったけど、俺目立つのが嫌いだから、影の大黒柱として後衛で職務をまっとうすることにしました』を観ないといけないから! いやこの原作がマジで神で、界隈では最終兵器なんて言われてもてはやされていてさ! 今超波がきている系統で」
はっ! いかん! つい語って――いやっ、語りそうになってしまった! あぶないあぶない。
……でも、大丈夫だ。なんといっても相手はあの菊井さんだ。そう、菊井さんなら――
口をつぐむと、俺は一度呼吸を整えてから菊井さんを見る。
菊井さんは小さく息をはくと、これまた小さく、なによりも魅力的に、小首を傾げる。
「そういえば、『めがこく』って、今日からだね。私、すっかり忘れてたよ」
「録画とかは、していないの?」
「そうだねー。でも、山田さんには今から向かうって言っちゃったし、多分席もおさえてあると思うし……でも観たい! そんなに話題作なら、調査も兼ねてぜひ観ておきたい!」
菊井さんの言う『調査』というのは、おそらくは漫画、アニメ、ラノベの市場調査のことだろう。
そう菊井さんは、作品をただ楽しむにとどまらず、自分でも実際に漫画を描く、作り手側の人なのだ。
俺がオタクの話題を持ち出しても、たががはずれてオタクトークが暴走しても、気持ち悪がらないどころか、むしろのりのりで話を聞いてくれるのはそういった事情ゆえだ。
「あ、じゃあ、俺、録画してあるから……」
菊井さんの丸くて大きな目が、俺を見つめる。
なに? とでも、いわんがごとく。
「だから……」今度うちで観る? 「その……」今度うちで観る?
言え! 誘え! 今度うちで一緒に観ない? って!
「こ、今度……」
「今度?」
「今度!」
俺は声を荒らげる。
勇気を振り絞って、高らかに。
「ディスクに焼いてデータを渡すよ」
「ほんと!? ありがと! すっごい楽しみ! 絶対だよ! じゃあ私そろそろいくね。『めがこく』の感想と意見、今度聞かせてね」
俺の手を取り、目を輝かせてから、菊井さんは早々に立ち去ってゆく。
一人で休憩室に取り残された俺は、菊井さんに握られた手へと目を落としながら思う。
リア充の陽キャラって、妙にスキンシップが多いよな。まあ菊井さんなら大歓迎だけど……と。
着替えて店を飛び出すと、俺は自宅のアパートへと全力で駆け出す。
バイト先から自宅まではほど近くて、走れば大体五分ぐらいだ。
現在の時刻が十時半で、『めがこく』の放送が日付をまたいだ十二時半からなので、普通に考えたらまだまだ時間には余裕があるようには思うが……俺にはない!
アニメ、特に期待大の大好きなアニメと向き合う時は、しっかりと準備をして、心の落ち着いた、いうなれば副交感神経優位の状態で臨まなければ、作品に対して不誠実だからだ。
シャワーをあびて一日の汚れを落とすのは絶対だ。
うまい、大好きな食事は、できれば用意した状態でスタンバイしたいな。
簡単に部屋の片付けをして、雑念を排除したいところではあるが……まあそれは余裕があったらでいいか。
「と、その前に……」
視界の端に煌々と光を放つ便利マート、通称コンビニが目に飛び込んだので、俺は足をとめる。
『めがこく』の公式ツミッターで呟かれていたのが確かなら、放送初日の今日は『めがこく』とコンビニとのタイアップ商品である『竜二の爆裂からあげ弁当』と『エンジェラお手製 果物たっぷりホイッププリンアラモード』が発売されているはずだ。
どちらもパッケージにキャラクターの絵がプリントされているだけで、なにか特典がつくというわけではないみたいだが……そんなタイアップ商品を片手に第一話をリアルタイムで観るとか、最高最大級の享楽だろ!
よしっ。今日は奮発して両方買おう。
主人公、竜二がプリントされたからあげ弁当と、ヒロイン、エンジェラたんがプリントされたプリンアラモードの両方を。
コンビニに寄り、お目当ての品を買い、うっきうきの気分で外に出ると、そこには歩道の真ん中に立つ女の子の姿があった。
もちろん、普段の俺だったならば、そのまま素通りして数秒後には女の子とすれ違ったその事実すらもきれいさっぱり忘れていることだろう。
でも今回ばかりは、そういうわけにはいかなかった。
斜めにかぶったオペラハットに、落ち着いた黒が麗しいゴシック調のドレス。
腰にぴったりとしたコルセットのような物が巻かれているので、スカートの部分がふんわりと花開いており、その下からはレースの飾り縫いが目を引くペチコートが垣間見えている。
髪は片側のみが長い、アシンメトリーなショートボブだ。
斜めに揃った前髪の向こうには、どこか冷たい雰囲気のある切れ長の目が並んでおり、まるで世界をばかにするように、口元にはシニカルな笑みが浮かんでいる。
うわー……すげえ……ゴスロリだ。久しぶりに見たな。
というか、マジでビスクドールみたいだ。
女の子のかわいさ、美しさに俺は一瞬心を奪われたが、いかんいかんと心の中で首を左右に振ってよけいな考えを振り払うと、とまりかけた足をなんとかかんとか理性で動かして、いつも通りに女の子の横を素通りしようとする。
「てめーが鈴木友作か?」
――え?
突然、俺は名前を呼ばれる。
あまりにも予想外だったので思わず俺は女の子を振り返ると、きょとんとした顔でただただ自分自身を指さす。
「だーかーらー、てめーが鈴木友作かって聞いてんだよ。このうじ虫野郎が」
「え? あ、はい。……ええと、きみは?」
「俺っちか? 俺っちはアビゴール。なんつーかてめーを、殺しにきたもんだ」
アビゴール? 名前? って、え?
今この子、殺しにきたとか言わなかったか? 聞き間違い? え?
「ふうん……そっかそっか。てめーが鈴木友作か。向こうの世界で見た似顔絵よりも、さらに愚鈍さがにじみ出ていやがるなー」
自分のことをアビゴールと言うその女の子は、かわいらしい顔に似合わず、粗野な口ぶりでぶつぶつ言うと、うしろで手を組んで、下からのぞき込む格好で俺を見つめる。
……な、なんなんだ……この子は。
ちょっと残念な子なのか?
いやでも、なぜか俺の名前を知っていたし。
というか向こうの世界?
「こんなやつが勇者候補者ねー。まあそっか。勇者って、転移前は、無能力で、どうしようもないクズって、そう聞いてるし」
アビゴールの言ったこの言葉で、俺は大体の事情を把握する。
……ああなるほど、そういう『設定』か。
つまりこの子は、重度の厨二病患者ってわけだ。
じゃあなんで俺の名前を知っているのかっていうのは気にはなるが、とりあえずこういった輩からは距離を取るのが一番だ。
しかもこの子まだ高校生ぐらいだろ?
下手にかかわるとなにを言われるか分かったものじゃあない。
恐ろしや恐ろしや。
……というか未成年って、こんな時間に外を出歩いていていいもんなんだっけ?
俺みたいな、就活に失敗していい年こいてフリーターなんかやっちゃっている野郎ならまだしも……。
俺は、不意に出てしまった自虐に痛恨の一撃をくらうと、情けなくも丸まった背中をアビゴールへと向けて、なにも聞こえなかった風を装いつつ、そそくさと駆け出す。
「お、おおい! ちょっと待てや!」
無視無視!
こういうやばいやつは、大抵無視をして立ち去れば、追ってこないし、それで事なきを得るはず。
「待てって言ってるだろ! てめー耳が聞こえねえのか!? あ!?」
事なきを得るはず……。
「まだ話の途中だろうが! これだから良識のない蛮族は!」
事なきを得……。
「まあいっか。話しても無駄か」
事なきを……。
「どうせ俺っちの手で、ぶっ殺すんだからな!」
得ない!?
ぶっ殺すという言葉を聞いて、いよいよ俺は全力で走り出す。
なりふり構っていられるか!
重度の厨二病患者は、マジでなにをしてくるか分かったものじゃあないからな!
触らぬ神に祟りなしだ!
気がつけば、アビゴールが俺の前に立っている。
……いや違う?
だって今の今まで、俺のすぐうしろから声がしていたし……というか、今上から、空から落ちてきたような……。
「なに呆けてんの? さすがは愚鈍野郎だな。もうすぐ俺っちに殺されるっていうのに」
「は? 一体なにを言って……」
アビゴールが、さっと、右腕を横にのばす。
するとのばした先の空間に、なにやら黒い靄みたいなのが現れて、やがてぽっかりとあいた、黒い穴のようなものになる。
「安心していいよ。俺っちは優しいから、苦しまずに一撃でしとめてやる」
黒い穴から、なにか棒状の物が、音もなくすうっと出てくる。
アビゴールはそれを手でつかむと、穴から引き抜くと同時に、空間に一閃を引くようにぶんと音を立てて振るう。
目を……疑った。
CGでないのはすぐに分かった。
もしかしたらマジックの類かもしれないけど、瞬時に判断するには、今目の前で起こったことはあまりにも真に迫っていた。
「え? ええ? 槍? 本物? でもどうやって? え?」
「さあ、殺戮の宴の、始まりだ!」
にやっと口角を上げて笑うと、アビゴールはタメの動作なしで、一気に突きを繰り出してくる。
「うわぁっ!!」
あまりに驚いた俺は、足がもつれてそのまま地面へと尻もちをつく。
これがよかった。意図せずに転んだことにより、結果的にアビゴールにより突き出された槍をぎりぎりのところでかわすことになったのだから。
はあ……はあ……はあ…………。
「ふんっ。運のいいくそ虫だな」
俺は槍を見上げる。
槍は、ちょうど俺の背後にあった自動販売機を、貫いている。
……嘘……だろ?
やっぱり本物?
やばい……やばいやばいやばい……。
「だが次はねえ。俺っちの一突きで、テメーのその薄い胸板に、風穴をあけてやんよ」
アビゴールは槍を自動販売機から抜こうと引っ張るが、引っかかっているのか、なかなか抜くことができない。
そのため、両手で柄を握り、片方の足を自動販売機の側面に押し当てて、まるで綱引きをするように、ごとごとがたがたと音を立てて引っ張っている。
今がチャンスだ! そう思った俺は、とにもかくにも逃げようと、立ち上がるとほぼ同時に一気に駆け出す。
「あっ! また! 逃げるしか能がねえのか!? このクソカスが!」
繁華街に、アビゴールの雄々しい声が響き渡る。
時刻はもうじき二十三時にさしかかるといったところだろうか。
とはいえ街中なので人の姿がちらほらと見られる。
彼らは一様に、一体なにごとだ? といった眼差しを俺たちの方へと向けている。
もちろん見ているだけで、なにかしようとはしない。
助けるなんてもってのほかだ。
事実俺だって、もしもこれが第三者の立場だったならちらりと横目にしつつ、なんか大変だなーとあくまでも他人事な思いを抱いてさっさと立ち去ったと思うし。
「ああ! もうめんどくせー!」
背後から、アビゴールのどこかやけっぱちになったような声が聞こえる。
俺は肩越しにちらりと、そんなアビゴールへと視線を送る。
目を、疑った。
槍を自動販売機から抜くことを諦めたアビゴールは、そのままぐいと持ち上げて、俺の方に向かって掲げたのだ。
その様はまるで、超巨大なヘッドのついた、トールハンマーみたいだ。
――いや! いやいやいや! そうはならんだろ!!
異常な事態を察したのか、周りにいたいくらかの傍観者たちも、目を白黒させたり、口に手を当てたりしてざわざわとし始める。
そんな喧騒もどこ吹く風みたいにシニカルな笑みを浮かべると、アビゴールはぐっと腰に力を入れて思いっきり槍を振るい、自動販売機を俺へと向かい投擲してくる。
……あ。
アーチを描き、俺の方へと飛んでくる、大きな大きな鉄の塊。
……だめだ。
生存本能でも働いているのか、目の前の光景がやたらスローに、俺の目に映る。
……俺、死んだわ。
呆気に取られた周囲の顔に、悪意に満ち満ちたアビゴールの笑み。
そして極めつけは、今まさに俺を押しつぶさんと飛んでくる、硬くて重たい、殺傷能力が十分と思われる自動販売機。
もうだめだ! と、とっさに腕で頭をかばったその時、強い光と共に空間が歪み、俺の目の前に一人の女の子が現れた。
つばの広い、紺色のとんがり帽子をかぶり、これまた紺色のケープを纏った、どこからどう見ても魔女っぽい、そんな女の子が。
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