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「エントリーナンバー二十番、音羽奏。曲目はA.スクリャービン作曲、十二の練習曲、作品番号八より十二曲目『悲愴』。S.ラフマニノフ作曲、十の前奏曲、作品番号二十三より四曲目ニ長調、六曲目変ホ長調。本田雅人作曲、WHEN I THINK OF YOU」
司会のアナウンスを聞き、奏は、暗転しているステージ中央に設置されているコンサートグランドピアノをじっと見つめている。
舞台上が明転し、奏はフゥっと大きく息を吐いた後、心を落ち着かせるために恋人から頂いたネックレスのペンダントトップに軽く触れる。
髪を夜会巻きにし、ステージ衣装でもある薔薇の刺繍が施されたボルドーのロングドレスの裾を靡かせながら、ステージ中央へと向かった。
(怜さん……どこかで観てるのかな……)
恋人の事を想いながら、観客席を視線で一望した後、深々と一礼すると拍手に包まれた。
張り詰めた空気の中、緊張しつつも椅子の高さの調整をする。
椅子に浅く腰掛け、ドレスの裾を踏まないように気を付けながらペダルの位置を確認し、足をペダルに乗せる。
太腿の上でギュっと両手に握り拳を作った後、鍵盤の上に手を乗せ、スッと素早く息を吸うと、最初の曲、スクリャービンの『悲愴』を演奏し始めた。
***
怜と奏が恋人同士となって三ヶ月後。
世間は二〇二四年度の年度末。
三月も終わりに近付いた土曜日、奏は、東新宿の大きなホールで、『第一回 サウンドファウンテン ピアノプレイヤーズコンペティション』のステージに立っている。
彼女が登録している演奏者派遣会社『サウンドファウンテン』が主催するコンテスト。
演奏者の音楽的技術や表現力の向上を目的とし、初めて開催される大会だ。
セットリストの中に書かれてある審査員の名前も、有名音大の教授や著名なピアニスト、作曲家の名前が数名記載されていた。
年が明けてすぐに、奏はメールでこのコンテストの事を知り、募集要項を見てみた。
一、演奏時間は二十分。
二、二十分以内なら何曲弾いても可能。
三、演奏する音楽ジャンルに関してはクラッシックの楽曲を最低一曲入れる事。
小規模の大会ではあるが、自分自身の演奏を客観的に聴いてもらえるチャンスだと思い、奏は早速エントリーした。
音大在学中、恩師の意向で様々なピアノコンクールやコンテストに出場していたが、卒業してから、コンテストなどの大会に参加した事は一度もない。
卒業してもうすぐ五年。
社会人となり、こういう大会に出場しようと思ったのは、リペアラーとして常に向上心を持ち続けている恋人、葉山怜の影響が大きい。
練習に集中するため、コンテストが終わるまで、彼と会うのは土曜日のお泊まりデートのみにしてもらった。
奏は音大時代の恩師、波照間 理恵の元へ向かい、月に一度、レッスンに通った。
コンペティション直前のレッスンの際、師匠が不意に『ああ、そういえば』と前置きする。
『あなた、これ卒業試験で弾いた曲よね? 卒試の時はラフマニノフ、スクリャービンの順に弾いてた記憶があるけど、今回は順番を逆にして演奏したいのね。何か意図でもあるのかしら?』
音大時代に使っていた楽譜をそのままレッスンに持参し、スコアの空きスペースにビッシリと書き込まれたアドバイスや注意書きを見ながら、恩師は奏に問いかけた。
(何て言えばいいんだろう……?)
斜め上に視線をやりながら逡巡していた奏は、師匠の面差しに向けて、こう言い切った。
『この曲順が、私の歩んできた人生そのものだと思ったんです』