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「本当に寒い。確かに暖炉では火が燃えていて、そちらを見なくても燃え盛る音は聞こえるのに、熱は来ない。恐ろしい土地だよ。これで秋? 信じられない」
濡れた蛇が獲物を絞め殺す時のように、寒気がリューデシアの足元から這い上がってきて全身を締め付ける。実際の所、シグニカの高地もまたガレインと遜色なく極度に気温の低い土地だったのだが、その総本山であるシグニカの、ましてや聖女や護女の住まう聖ミシャ大寺院はその高度よりも高度な寒さ除けの結界が僧侶たちを守っていたのだ。
見えない共演者に語り掛けるようなリューデシアの独り言に割って入る、扉を叩く控えめな音が響く。聖女だった王女はぼやけた硝子の嵌まった窓の外――ともすればこの部屋よりも暖かそうに見える、篝火に人々の集う景色――から真新しい木製の扉へ顔を向けて一言、独り言と変わらない声色で入室を促す。何かを警戒するかのようにゆっくりと開いた扉から入って来たのは使い魔の一柱紐解く者だ。
頭と胴体、四肢を備えた人の形をしているが、全身が白い羽毛に覆われていて、温かそうだ。使い魔の一体化した翼と腕が扉を後ろ手に閉める。かなり怪物めいてはいるが、それでも使い魔の中では比較的人間の姿に化けるのが上手い方だ。
そこはリューデシアに与えられた部屋だった。一国の王女の一室としては粗末なものだ。質素な暖炉、華やかさの欠片もない文机、小さな円形の食卓。無駄、あるいは余裕のない空間だ。そしてこれが兄上の意思表示なのだろう、とリューデシアは考えていた。使い魔に命じればいくらでもどのような部屋でも用意できるはずだが、あえてそうしていないのだから、言葉よりも雄弁で遠慮が無い。
とはいえ部屋は何もかもが作りたてで輝いており、何よりその出来には寸分の狂いもない、という美点もあるにはある。リューデシアは不満の言葉を零しつつも部屋にいる時間は多かった。他にすることがなければ要塞内部を見渡し、湾の人々の動きを観察して、静かに密かに笑みを浮かべている。最近は労働者の出入りも増えていて、何やら物資が要塞に運び込まれていた。この土地の商人も交わっているようだった。
ライゼン大王国にやりたい放題にされて、しかしガレイン連合に動きは無い。シグニカ統一国、救済機構に手綱を握られていることの証左だ。クヴラフワ衝突の二の舞は避けたいのだ。
そんな要塞内部を眺めていた折、紐解く者が子供たちを集めて面倒を見ている姿を見つけたのだった。リューデシアに憑依したヒューグが連れていた子供たちだ。それに興味を持ち、呼びつけたという訳だった。
「どうしたの? こちらへ来て。怖くないよ」とリューデシアはとば口で棒立ちの紐解く者を促す。
紐解く者は一歩だけ踏み出した。顔も人間の女だが、眉毛の代わりに生えた羽毛のせいか、日も暖炉の火も弱く薄暗いためか、表情は読み取りにくい。それでいて不機嫌であることは明らかだった。火の揺らめきの綾なす影の方がまだ多彩な表情を持っている。
「何の御用でのお招きか、聞いても良いかな?」
「色々だよ。歴史を教えて欲しいのと、子供たちと何をしていたのかを聞きたいかな。あと一緒にお昼でもどう?」
リューデシアがまだ料理の無い机を指して促すと、紐解く者は逡巡の後、机のそばまで来たが椅子には座らない。リューデシアが窓際から使い魔の方へと近づくと、紐解く者はあからさまに距離を取る。それも身を庇うような仕草をしてまで。
「封印を剥がすと思ったの? そんなことしないよ」そう言ってリューデシアは紐解く者の椅子を引く。
ようやく紐解く者は、しかしやはり躊躇いながらも椅子に座った。リューデシアも向かいに座る。
「子供たちには歴史を教えていたんだ。それが私の唯一得意とするところだからさ」紐解く者はじっとリューデシアを見つめて答えた。
「兄上には何も仕事を命じられていないの? まあ、歴史を教えろとは言わないだろうけれど」
「うん。今、ラーガ王子の役に立てる魔術は何も知らないからな。不滅隊の戦士たちも意外と、というと失礼だけど、選良だね。歴史の授業などいらないようだ」
「そうだろうね。ライゼンでも指折りの名家の子息たちだから。あの子供たちのような孤児はいない」
再び扉が叩かれ、リューデシアの招きと共に饗す者が入室する。まるで丸太を組み合わせたような姿の使い魔が、その部屋には他に誰もいないかのような態度で、秋の料理を机に並べていく。風味豊かな燕麦の麺麭が添えられた、盛りの茸と山菜の炒め物。舌で潰せるくらい煮込んだ山羊肉の入った山羊乳の蒸煮肉には半熟の落とし卵も付いている。
「昼食の後に子供たちと遊ぶ約束をしているのだけど、構わない?」と紐解く者が料理から立ち昇る湯気越しに尋ねる。
「うん。いいよ。それまでに解放すると約束する。それじゃあ歴史を教えてくれるんだね」
「……選択の余地があったの?」
「もちろん。無理強いするほどのことじゃないよ。やっぱりやめる?」王女は優雅に肉叉と肉刀を手に取って問うた。
紐解く者はゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。それで、何を知りたいの?」
「第七聖女アルメノンにまつわる出来事」
紐解く者は霧の中に一瞬見た人影でも探すように疑わしげな眼差しをリューデシアに向ける。
「噂には聞いたけど、本当に覚えてないって言うの? 二十年分の記憶を失っていると?」
「そう。何も。正確には微睡の中で夢を見るように何かを感じ取っていたような気もするけど。何一つ焦点が合わないという感じかな」
「私のことも?」と紐解く者は言った。
「ごめんなさい。本当に、何も」
その言葉を検分するように紐解く者はリューデシアを見つめ、そして麺麭を手に取る。
「いいさ。良い思い出ってわけでもない。それで、聖女アルメノンの事績を知ってどうするのか、は教えてくれるのか?」
「どうするか、を決めるためかな。だから、できれば大王国の視点でどう受け止められていたかが知りたいの」
紐解く者は宝石の傷でも探すように疑わし気な視線を向けてくるが、最後には小さく何度か頷いた。
「大王国に戻って、生き延びるためにってことか」
「そういうこと」リューデシアは唇の端を吊り上げる。「忘れた、知らなかったは通用しない。今戻っても居場所はない。一人孤独に殺されるか、一人孤独に生かされる」
「孤独にはならないのでは? 兄君とて妹君とて貴女を見捨てる理由はないだろう」
「私の呪いのことは噂に聞いた?」
「妹君を呪ったという噂なら」
リューデシアは纏わりつく虫でも払うように首を振る。
「ううん。そっちじゃなくて、私も呪われているの。『交わりあらば永久に寿ぐ鼓は鳴り止まぬ』。母に贈られたという予言」
「誰かと共にいれば永遠に……、鼓、鼓動は鳴り止まない。死なない、ということですか? であればむしろ加護では?」
「そうだね。でも裏を返せば死ぬ時は孤独だということ。誰も私の死を知ることはない、ということ」
「それは拡大、いや、縮小解釈だと思うけど。解釈の余地は十分にある」
リューデシアはそこで初めて紐解く者に微笑みを見せる。
「優しいね。でも、兄上とて私を野放しにすれば立場が危うくなる。長らく大王国に敵対していた存在を如何に処分するかが、兄上の行く末を左右する」
「良くて囚われの身という訳か」
「あまり良いものではないよね」
「ああ、使い魔の一人としてそれは保証するよ」
「命令に逆らえないなんて、あまりに惨いと私も思う」
「君に言われたかないね」と言った紐解く者の声の響きは足元に沈殿している冷気のように冷たかった。
「ごめんなさい。私――」
「忘れた、知らなかったは通用しない。言葉を選ぶくらいは出来たはずだ。これまでのお互いの立場が分かっていれば、容易にね」
「その通りだと思う。無神経だった。ごめんなさい。謝って済むとも思っていない。必要なのは新しい関係性」
「関係性? 別に友人になりたいなんて思ってないさ」
「そうじゃなくて、教わりたいことが沢山ある。貴女に教わりたい人も沢山いるはず。歴史は一つ、でも未来を左右する。でしょ?」
紐解く者はしばらく机の上の湯気の落ち着いた料理を眺め、諦めたように溜息をつく。
「横道にそれたな。アルメノンの為したこと、知りたいんだろう? が、正直言って歴代聖女と比べて特別大きな違いは無いように思う。歴代聖女同様に幾つかの災いを最たる教敵と認定し、特務機関を設立した。有名なのは救童軍、最近のは魔法少女狩猟団か。常設機関に移った組織が無いのが特徴と言えば特徴かな。裏を返せば全ての特務機関が任務を完了したってことだ。……難しい顔をしているな」
「うん。全く実感がわかなくて。私の話なのに」
「もう少し細かく話していこうか。何か思い出すかもしれない」
「そうだね。お願いしようかな。……あ、待って。ここで一旦終わりにしないと」
「どうしてだ? まだ食事も残ってる。いや、私は別に食べなくたって大丈夫だけど」
リューデシアは窓の方に視線をやる。働く者たちの声に交じって、子供たちの声が聞こえてきた。
「あちらはもう食べ終えたみたいだよ」
「少しくらい構わない。まだ障りしか話していないしね」
「駄目。約束を破ってはいけない」そう言ってリューデシアは手を伸ばし、紐解く者の手を取る。「それともう一つ、私のことを信じてくれない?」
「どうだろう。まあ、警戒は解こうかな」
「良かった」そう言うとリューデシアは立ち上がり、机を伝うようにして紐解く者の背後へと回り込む。
そして服の中、背中に手を突っ込むと封印を剥がした。抵抗は無かったが緊張は有った。そして鶴の剥製に変身した紐解く者に貼り直す。
再び人の形になった紐解く者は飛び退いた拍子に椅子を蹴倒し、自身も背中から倒れて尻もちをつく。
「何を!? いや、何もしていないのか」
紐解く者は料理の湯気を見つめ、暖炉の薪を見つめる。ほんの少しも時間は経っていないのだと理解できる。
「封印を剥がされないように、という【命令】はなかったの?」とリューデシアが尋ねると、不思議そうに紐解く者は答える。
「命令はあった。けど、まさかそんなことをするとは、心の底から思っていなかった。たとえ命令されていても、考えもしないことは実行しない、という話を聞いたことは有ったが、こういうことだったのか。でも、いいのか。ラーガ王子に対する明確な裏切りだ。ただでさえ不明瞭な君の立場を危うくする」
「いいよ。私は私を裏切りたくないの。判断は紐解く者自身に任せる。したいことをして」
紐解く者も窓の外に視線をやって立ち上がると、再びリューデシアを真っすぐに見つめ、そして扉へと向かう。
「しばらくは前の命令通りに過ごす。今は別に好機でも何でもないからな」
「そうだね。まずは子供たちと遊ぶ約束を果たさないと」
紐解く者はしっかりと頷き、扉を開いたが、同時に胴の中ほどで上下に両断された。床には二つに分かれた鶴の剥製が残され、封印はその凶行を成した剣の刃に辛うじてくっついていた。
「酷いじゃない!」とリューデシアは叫ぶ。「なんてことするの!? ソラマリア!」
「勝手なことをされては困ります」
その背後には妹、レモニカもいる。その姿はレモニカそのものであり、リューデシアの初めて見る顔だった。