急に鞭が止んだ。俺は顔を上げた。麗華さんが俺の正面に立った。
「馬鹿ね。こんなところで泣くなんて。顔ぐちゃぐちゃじゃない」
そう言って手のひらで俺の顔を拭った。
「どうせ泣けなかったんでしょ? ここなら泣いたってみっともなくなんてないわよ。ふふ、鼻水出てる」
そう言って綺麗な指で俺の鼻を擦った。すると目からボタボタと涙が溢れた。
「背中も血が滲んでるし、唇も切れてる。そこまでしないと泣けないなんて難儀な人ねえ」そう言って麗華さんは俺の拘束具を外し、バスタオルを放って寄越した。
「私の腕の中で泣く?」麗華さんはそう言って腕を広げた。
「……やだ」
「頑固ねえ、可愛くないわよ。せっかくのご褒美なのに」
ご褒美なんて貰う資格はまだ俺にはない。それに麗華さんの腕の中の気持ち良さを知ったら決心が揺らぐ。俺はバスタオルでゴシゴシと顔を擦った。
「鞭は俺にとって坊主に背中を叩かれるのと一緒だ。叩かれるとスッキリするし、考えが纏まる」
「|警策《けいさく》と一緒にしないで」
そう言って麗華さんは自分からそばにやって来て、俺を腕の中に抱きしめた。
「意地っ張りの子豚ちゃんにはこうしてあげないとね」
……いや。いい匂いがして死にそう。あったかいしふかふかする。クソ。仕方なく俺は麗華さんに身体を預けた。
「──梨田さん? ええ、知ってるけど。いきなりどうしたの?」
「いや、葬式でいろんな組の人が来てて、たまたま話に出たから。その人も風俗好きなのか? いてて」
俺は消毒液をぶっかけられた背中を庇いつつワイシャツに腕を通した。擦れるだけで痛い。
「だからまだ着るの早いって言ってるじゃないの。梨田さんは風俗はほとんど利用しないわよ。キャバクラ好きらしいから」
なるほど。それでも麗華さんが知ってるってことはよほど顔が広いんだろう。
「どんな人? そんなに目立つ人なのか?」
「まあ、目立つといえば目立つわね。いつもイタリアンスーツにソフト帽だから」
「え? 年寄り?」
「まさか。四十歳くらいじゃないかしら。イタリア好きで店までマセラティで乗りつけるのは有名ね」
「ま、ませら?」
「マセラティ。車のメーカーの名前」
それは目立ちそうだ。しかし嫌味な感じしかしないのは何故だろう。
「梨田さんは目立つから。だから名前が出てきたのかも」
そうか。俺はなるほどといった顔を作った。石川はよく飲みに行くと言っていたし、どこかで出会っててもおかしくはない。けれど敵対関係といえど相手は年上の格上。石川がそんな人の情婦に興味を示すだろうか?
「碧?」
「あ、ううん。っていうかワイシャツが触れるだけで痛い」俺はそう答えて曖昧に笑った。
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