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「逃げなくちゃ……。早くしないと、見つかっちゃう……」
鬱蒼とした森の中を、一人の少女が息を切らせて走っていた。
長い亜麻色の髪に木の葉をくっつけ、翠玉のような瞳を瞬かせながら走り続ける少女の名は、エステル・ガーネット。
訳あって、神殿からの逃亡を果たしたのだった。
「たしか、この森に隠れ住んでるって言ってたはず」
“お勤め”でこの辺りの村に立ち寄った際、村の人がひそひそと話していた噂を思い出す。
その人の力を借りれば、きっとこの厄介な状況もなんとかできるはずだ。
そして、あの人からも逃げ切れるはず──。
目的の人物の住処がどこにあるのかは分からないが、直感に従って進んでいく。
(きっと、こっちよ。木の枝も手招きしている──ような気がするもの……!)
知らない森は少し怖くはあったが、あのときの恐怖と比べれば、それほどでもない。
早く、早くなんとかしなければ──。
「きゃっ!」
ドサッと音を立ててエステルが転ぶ。 ずっと走りっぱなしだったせいか、足がもつれてしまったみたいだ。
「いたた……」
両手をついて立ち上がったエステルは、再び走り出そうとして驚いた。
「これって、もしかして──」
目の前には、小さな家が建っていた。
茶色い三角屋根の素朴な家。 空き家ではなく、人が住んでいる気配がする。
(わたし、隠れ家にたどり着いたんだわ……!)
手のひらと服についた汚れを払い、玄関らしき扉へと急いで駆け寄る。 逸る気持ちのままに、扉を何度もノックした。
「ごめんください! すみません! 依頼があって参りました! 一刻を争うんです! ぜひお願いします!」
依頼をしたい旨を大声で叫び続けていると、やがて扉の奥から返事があった。
「……なぜここに人がいる」
どうやら若い男性のようだが、扉は閉まったままなので、どんな人かは分からない。 ただ、明らかにエステルを不審に思っているようだった。
「あの、あなたに依頼がしたかったので、隠れ家を探してたどり着いたんです」
「そういう意味じゃない。ここには誰も来られないよう結界を張っていたはずなのに、なぜ君はそれを突破できたんだと聞いている」
そう言われても、エステルにだって分からない。 でも、ひとつだけ心当たりはあった。
「それは、もしかしたら聖女の力のおかげかもしれません。実はわたし、一応ですが聖女なんです」
「聖女? それなら結界を突破できたのもあり得るが──しかし、聖女がなぜこんな森の奥まで……。それに依頼があると言っていたが、私が何者か分かっているのか?」
男性の問いに、エステルが大きくうなずく。
「はい、凄腕の呪術師様でしょう?」
「………………ここに来た理由は?」
なぜか不服そうな気配を醸し出しながら、男性が用件を問う。
エステルは胸の前で両手を組み、切実かつ大きな声で答えた。
「はい! あなたに呪ってもらいたくてやって来ました!」
しん、と沈黙が落ちたあと、扉の向こうから煩わしげな溜め息が聞こえた。
「──聖女が呪いの依頼など、世も末だな」
だいぶ呆れられている。
まさか、このまま門前払いだろうか。
しかし、不安に陥るエステルの前で、玄関扉がゆっくりと開いた。
「とりあえず、話だけは聞いてやろう。入れ」
「あ、ありがとうございます……!」
「それと、私は呪術師ではなく闇魔法使いだ」
「は、はい……! 闇魔法使い様……!」
◇◇◇
「で、呪ってほしいとはどういうことだ? 手短に話せ」
闇魔法使いはエステルに椅子に座らせると、その向かいに腰を下ろし、面倒くさそうに頬杖をついた。
声の印象のとおり、闇魔法使いは若い男性だった。 服装が暗い色合いなうえ、髪色も黒く、いかにも闇属性らしい雰囲気を漂わせている。 紫色の瞳がアメジストのようで綺麗だと思ったが、どことなく翳っていて、近づきがたいオーラを感じる。
人差し指でトントンとテーブルを叩く姿も、言外に「早く話せ」とプレッシャーをかけてきているようだ。
エステルはその圧に耐えきれず、それから本当に急いでいたこともあり、単刀直入に切り出した。
「それは、わたしがもう聖女でいたくないからです。なので、聖女の力を封じてくれるような最凶の呪いをかけてほしいんです。呪術師様なら、呪いも扱えるだろうと思って来たのですが、闇魔法使い様も呪いは可能ですか……?」
「可能だ」
「よかった……。では、どうかわたしを呪ってください……!」
必死の表情で訴えるエステルを、闇魔法使いが紫の瞳でじっと見つめる。
「君の聖女の力とはどういうものなんだ?」
「あ、正直なところ、そんなに大そうな力ではなくて、花を咲かせるとか、植物をすぐに成長させるとか、そういう感じの力なのですが……」
「貧弱だな」
「……」
そのとおりなのだが、人からはっきり言われると少し傷つく。
「その程度の力、わざわざ封じるほどのものでもないと思うが」
「は、はい、仰るとおり、あんまり聖女感のない力なのですが、それでもこの力が勝手に溢れてくると非常に困りまして……」
闇魔法使いが小さく嘆息した。
「金は払えるのか?」
「は、はい。ここにわたしの全財産がありまして──」
「300万リルだ」
「えっ……?」
「300万リル払えるなら依頼を受けてやる。払えないならさっさと帰ってくれ」
「そ、そんな!」
エステルの全財産は100万リルだ。あと200万も足りない。 今つけている髪飾りを売ったとしても、せいぜい10万リルにしかならないだろう。 闇魔法使いが提示した300万リルには到底届かない。
「あ、あの、今100万リルしかないのですが、なんとかまけていただくことは……」
「無理だ。あと200万リル貯めて出直してくれ」
闇魔法使いの情けのかけらもない態度に、エステルの顔が青ざめていく。
あと200万リルなんて、普通に働いて稼ぐとしたら、どんなに頑張っても1年はかかってしまう。 今こうしている間にも、あの人の追っ手が迫っているかもしれないというのに……。
「もう出ていってくれないか」
闇魔法使いが用は済んだと席を立ったとき、エステルの背後から可愛らしい子供の声が聞こえてきた。
「ねえ、可哀想だよ。助けてあげようよ」