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更けゆく夜、御簾の内はしんとして、帳の外には雨の音ばかりぞ聞こゆる。清涼院の君は、今しも褥に入らんとしたその折り、ふと細き足音を聞きとめ、眉をひそめて身を起こし給う。 御簾のもとに歩み寄りて、そっと扉を開き給えば――

濡れそぼちたる衣のまま、佇みしは兼正の君なりき。雨に打たれし髪は顔に貼りつき、肩よりしたたり落つる雫は、足もとに小さき水たまりを作るほどにてありけり。


「…これは、いったい…」


思わず口を衝きて出し給うた清涼院の君は、胸の裡にざわめき覚え、慌てて部屋奥の几帳そば、手拭いを置きたる机へと歩み寄られんとする。

されど、そのとき

兼正の君は一歩近づき、そっと君の手を取られぬ。雨に濡れた指先は、冷たくもどこかふるえておりき。


「…お構いなく。ただ…少しだけ、顔を見とうて参りました。」


兼正の君の声音は、濡れた衣の重みにも似て、静かに、しかし確かに胸のうちより洩れ出でたり。清涼院の君は、その手に伝わる冷たさに言の葉を失い、ただそのまなざしを見返し給う。

灯明のほのかなる光に、ふたりの影はゆらりと重なり、戸口の雨音だけが、世を遮るように響いておりぬ。

やがて、清涼院の君はようやく袖を引き、目を伏せながら口を開き給う。


「…そんなお姿で、まことに…。なにゆえ、今宵このような…」


言の葉はとぎれ、ときめきと戸惑いとが入り混じるその声音に、兼正の君はかすかに微笑みを浮かべ給うた。


「…どうしても、清に会わずには、眠れそうになかったのです。」


その一言に、清涼院の君の胸はふと波紋を描くように揺れ、ひとときの沈黙を置きて、静かに手拭いを握りしめ、そっとその手を差し伸べ給う。


「それでは、せめて、この手をお借りくださりませ。」


その所作は、まるで言葉に代えて想いを包み込むように、あたたかく、そしてどこか切なき優しさを宿していたり。

廂の外では、雨がなおも細く降り続きて、ふたりの間に淡く流れる時は、ひと夜の夢のごとく、儚くも尊きものでありぬ。


「清、覚えているか、私とあなたが初めて出会った日のこと。 私は今もはっきりと覚えている。 ……清のことだから、きっともう忘れてしまっているかもしれぬ。」


夜更けの雨音静まり、帳の内には仄かな灯のみが揺れぬ。濡れし衣も乾きかけし頃、兼正の君はなおも座を離れず、低き声にて言の葉を紡ぎ続け給う。


「…初めてお目にかかった折、清は一人、琴の調べを奏でておられましたな。あのときの音色…わたくしの心に、今なお鳴り響いております」


そのまなざしは、過ぎし日を確かにたどるかのごとく、静かに温もりを湛え給う。


「舞の御前にて踊られし姿も、忘れませぬ。月灯りよりもなお白き袖のなびき、御身の動きひとつひとつが、夢の如きものでした」


言葉は止むことなく、まるでひととき一人語りするやうに、想いのあふるるままに――


「清の声を聞いたその日、庭に初めて花が咲いたかのように思うたのです」

「御簾越しにちらと見えた笑みにさえ、胸が苦しゅうなった」


あれもこれもと、思い出は限りなく、話の端に熱を帯び、どこか少年のような面差しすら浮かべながら、兼正の君は語り続け給うた。

清涼院の君は、その一言一言を受け止め、袖にそっと指を添えつつ、目を伏せて聞き入り給う。灯明の揺らめきがその睫毛に映りて、今宵のこの静けきときに、また一つ新しき記憶が刻まれぬ。

仄かなる灯明のかげにて、ふたりは並びて座し給う。夜は静まりて、雨の名残も遠く瓦を打ち、時折風に庭の竹が鳴るのみ。

その折、兼正の君はふと顔を伏せ、声細やかに、されど胸の底より湧き出づる思いを込めて語り給う。


「子が育たぬのは、お前の咎にあらず。それを、私は…私はお前のせいと、責め立てていた。」


言の葉はふるえ、唇はかすかに揺れていたり。


「全て…全てが悪かったのは、私であった。心を寄せず、声も届かぬふりをし、お前を独りにした。今さらこのように申して、赦しを得ようとは思わぬ。されど…伝えたかったのだ」


その言葉に、清涼院の君はふいにまなざしを伏せ、困りたるような、なだらかに眉を寄せ給うた。されどその頬には、淡き安堵の翳りがひとすじ走り、面差しの奥には、懐かしさとも呼ぶべき静けさが宿っていたり。


「…あの頃、兼正さまのお声に触れることすら、夢と思うておりました」


と、君は静かに答え給う。

御簾の外には、もう雨音も絶え、月の光が戻りて、二人をふたたび同じ影のうちに結びたり。

月は雲間より差し出でて、ふたたび御簾の内をほの明るく照らしけり。清涼院の君は困りたるように微笑を浮かべ、袖にそっと手を重ね、目を伏せておわしました。

その面差しには、責めも憐れみもなく、ただ遠き日々を映すおもかげと、胸奥に湧きあがる懐かしさとが静かに交じりておりき。

兼正の君は、そんな清涼院の君の姿に、しばし言葉を失いたるものの、やがて小さく息を吐き、ふと顔を上げ給う。


「…こうして穏やかに、清と言葉を交わせる夜が、再び訪れようとは思うておりませなんだ」


その声には、悔恨の色を残しながらも、どこか安らぎがありき。

清涼院の君は、静かに頷き給うたのち、そっと戸口の外に目を向け、やわらかな声音にて申されぬ。


「人の心は、時を経て、まためぐりゆくものでございますね。…こうして今、兼正さまのお声を聞いておりますると、遠き日の琴の音もまた、蘇りてまいります」


ふたりのあいだを吹きぬける夜の風は、すでに湿りを払い、どこか軽やかに、庭の梅を揺らしていたり。

そしてその夜――言の葉は少なけれども、失われし時の片端が、そっと紡がれはじめたりけり。

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