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長き夜もようやく明けて、空の色うっすらと淡くなりゆく頃、御簾の外には鳥の音も聞こえはじめ、朝靄のなかに庭の若葉がしとど濡れておりき。 梅の君は、まだ帳を上げぬ清涼院の君のご様子を案じ、そっと渡殿を渡りてその気配を窺いたまう。

思案をめぐらせながら御簾をそっと分けしところ、そこには見慣れた姿――清涼院の君が、庭の片隅、苔むした土地に据えられたる、どこか錆びし金属の板のような物に、いつも通り腰を下ろし給う姿ありけり。

朝風に髪をなびかせつつ、ただ遠くを眺め、しずけさのうちに佇むその様は、変わらぬようにも見えながら、どこか儚くもありき。

梅の君はそっと歩み寄り、


「清。ご機嫌、いかがにておわしますか」


と、やわらかき声にて問いかけ給うた。

清涼院の君は、ふと振り向き、微かに笑みをたたえつつも、その瞳には、夜の名残がほんのわずかに浮かびておりき。


「…今朝は、少しだけ風がやさしうございますね」


と、静かに申され、袖のうちに指を重ね給う。その姿は、すでにすべてを語らずとも、何かを超えた後の静けさを湛えておりける。

清涼院の君は、雨に湿りたる空を眺めながら、袖をひとたび膝に重ね給う。そのまなざしには、昨夜の余韻が静かに差し残り、されどどこか澄み渡った凪の気配が漂いておりき。

梅の君は、その様子にそっと心を撫でられたるごとく、にこやかに寄り添い、腰をかけ給う。


「今朝も、ここにおられると思うておりました。」

「この鉄の板に腰かけておいでの姿……子供のころのわたくしは、それを見ては、なんとも不思議な気持ちになったものです。」


清涼院の君は、少しだけ笑みを浮かべ、かすかに首をかしげ給う。


「それほど居心地よきものでもありませんが…不思議と、落ち着くのです。」

「誰かの気配が恋しくなると、わたくしはここに来てしまうのでしょう。」


その言の葉に、梅の君はふと目を細め、


「今朝は…どなたの気配が、恋しかったのでございましょうか」


と、静かに問われたり。

清涼院の君は答えず、ただ風の吹く方を向き、ひとつ長く吐息をもらし給う。その横顔に差しこむ光が淡く、庭の草葉がそよぎ、鳥の声が遠くから届いた。

朝の光は、ふたりの袖を照らしながら、ゆるやかに時を包みぬ。

ふたりの語らいは、いつしか間も言葉もとぎれがちとなりて、それでもなお並び座する心地よさは変わらずありけり。

ある一言に、あるしぐさに、何がきっかけであったか定かならねど――

ふと、清涼院の君と梅の君は顔を見合わせ給う。

そのまなざしが重なりし瞬間、まるで綿雲が裂けて月が覗くかの如く、ふたりの唇には自然と笑みが浮かび、やがてこらえきれぬように、くすくすと小さき笑いの音が零れ出でたり。


「…あら、何もおかしきことなど申しておりませぬのに」


と清涼院の君が囁けば、


「それでも、なにゆえか、笑いたうなりまして…」


と、梅の君も袖で口もとをかくしながら答え給う。

笑いのつぼはただ風に乗り、言葉もなく、されど心のみはひとしずく澄みわたる朝の水のごとく通いぬ。

雨あがりの庭の緑も、どこかやさしくふたりを見守っているように映りけり。


「このあいだ、兼正さまに梅のことを少しお話ししたのです。

すると、『たった一度でいいから、お会いしてみたい』とおっしゃっていて……。

もし梅がよろしければ――一度、お会いしていただけませんか。」


清涼院の君がふと語りかけたる言の葉、宵の残り香のように穏やかに庭先に漂いぬ。

それを受けし梅の君は、すこし大きく目を見ひらき、そして次の刹那には、ふわりと花ほころぶごとき笑みを浮かべ給うた。


「――わかった。」


その声音、晴れたる朝に小鳥のさえずるがごとく澄みわたり、どこかはじらうように、されど確かなる嬉しさを帯びて響きたり。

袖を小さく揺らしつつ、梅の君は顔をほころばせ、まなざしの奥にあるあたたかき情を、言の葉少なに託し給う。

清涼院の君もまた、その返しにふっと笑みを返し、ふたりの間には風すらもやわらぎて、春の気配に似たる静けさが流れぬ。


春の名残の風、御簾の向こうにそよぎ、鳥の声もどこかたゆたうる朝のことなり。

その折、梅の君は、清涼院の君の御座所をたずねられぬ。几帳のかげより現れしその姿には、衣の裾すこし乱れ、まなざしもよそよそしげにて、どこか緊張のおもむきがありけり。

清涼院の君は、そんな気配を敏やかに感じ取り、常より柔らかなる声音にて、心くばりつつ語りかけ給うた。


「梅の君、よう参られました。朝の光がいと美しうて、こうして人に逢うもまた格別にございます」


されど梅の君、背筋正しく、答える声も堅く、


「は、はい…。お招き、かたじけのう存じまする」


と、礼の言葉のみ整い、笑みも硬く浮かびたり。


「まぁまぁ、そんなにかしこまっては、まるで宣旨でも受けに来たようにございますよ」


と、清涼院の君は袂に頬を寄せながら、ふわりと微笑み、やがてくすくすと小さき笑いを洩らし給うた。その笑いは風の鈴の音のごとく、やわらかにして気どらず、緊張のあやを解きほぐすかのように響きけり。


「それほどまでに、わたくしが恐ろしゅう見えましたか?」


その言の葉に、梅の君もつられて、肩の力がふと抜け、ほのかに笑みを返し給うた。 挨拶の言の葉も和らぎ、清涼院の君との語らいひとたび間を置きし折、梅の君は何げなく御簾の外を見やり給う。

そこに遠く、春なお浅き空の下、ひときわ白く咲き満ちたる一本の木の姿ありけり。花は風にそよぎ、ひそやかに散りゆく気配をまといて、まるで時のうつろいを映す鏡のごとし。

その光景に、梅の君は知らず目を奪われ、やがてそっと息を呑み給う。


「…懐かしいの…」


胸の奥、深く沈めし記憶の水面が、そよ風にさざめくように揺れ、ふいに遠き日の誰かの声が、心の奥底よりささやきかけるように響きたり。


「わたくしの可愛い子。お前は、変わらずそこにいてくれるのだね」


とでも云わんばかりに。

それが誰のものであったのか、名も面影も定かならねど、ただ胸のうちをあたたかくも切なく締めつける思いに包まれ、梅の君はただ静かに、その咲きゆく花を仰ぎ見給うた。

花の香、淡く風とともに漂いて、朝の光とともに、記憶と現の狭間をそっと結びぬ。

風は朝靄を抜け、梢をわずかに揺らしては、咲き匂ふ花びらの影を地に落としぬ。

梅の君は、その木の花を見つめたまま、ふいに胸の奥にて何かがかすかに響くのを感じ給うた。それは言の葉にもならぬほど淡き気配なれど、確かに己が心の底より湧き出づるものでありき。


「…あのときも、こんな匂いがしておった」


思わず洩れたひとこと――それが、記憶の扉をそっと開けたように感じられたり。

誰かが名も告げずに問いかけてくる――そんな錯覚に似た懐かしさの中で、梅の君は幼き日の庭、誰かの袖にすがるように走り寄った情景を、ひそやかに思い起こし給う。

ふと隣に目を向ければ、清涼院の君が静かに梅の君の面持ちを見やり、微かにうなずき給うておりぬ。

ふたりのあいだには言葉のかわりに、朝の香と、花のしずくが流れてゆき、心は少しずつ、忘れていた風景へと導かれんとしていた。


「わたくしはこれまで、男の子ばかりを授かってきたのですが、 一度だけ、奇跡のように女の子を産んだことがあるんです」

「その子には、花を愛するやさしい心を持ってほしくて……

あちらに咲いている花を、何度も見せてあげたものでした。」


風に花の香漂うなか、梅の君はじっとその咲きこぼるる木を見つめたまま、動かずにおわしました。

やがて、ゆるゆると口もとに手を添え、かすかな声をもらし給う。


「…覚えてはおりませぬが、何処かでこの木を見たような…そんな気がいたしますのです。」


それは夢の記憶のように輪郭をもたず、されど胸のうちに懐かしさと切なさのほのかなる香を残しぬ。

清涼院の君は、少し面を傾け、優しくその横顔にまなざしを寄せ給う。


「人の記憶は、いつか心を守るためにそっと覆いをかけると申します。けれど、香や音、光とともに、ふと戻り来ることもありましょう」


梅の君は、目を伏せながらも頷きて、ふっと息を吐き給うた。その息のさきには、また名もなき思いのかけらが、風に舞い上がり、春空へと消え入りぬ。

木の下では、花びらひとひら、音もなく落ちて地に溶けたり。

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