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「あっ、みて紫陽花」
隣を歩く彼がふと足を止めて、俺の腕を引いた。嬉しそうに細められた目線の先には鮮やかな青色の紫陽花がたくさん咲いている。
「すごいねぇ。もうそんな時期なんだ……あれっ、これは紫色だ、種類が違うのかな?」
あっ、向こうにはピンクのもあるよ、と少し離れた先の紫陽花を彼は不思議そうに指さす。
「同じだと思うよ。確か紫陽花は土壌のpH値によって花の色が変わるんじゃなかった?」
ぺーはーち、とカタコトみたいに繰り返すあたり、多分彼は理解していない。
「酸性が強い土だと青、アルカリ性だとピンクになるんじゃなかったかな。わかんない、逆かも」
あぁ、と彼は合点がいったというように頷いてみせる。
「理科のリトマス紙みたいなやつね」
そうそう、と頷いてから、ふと思いついたことを口にする。
「紫陽花って人間みたいじゃない?」
「へ?」
「育つ環境によって色が変わるんでしょ。人間だってそうじゃない?同じ条件を持って生まれた人間でも、育つ土壌が変われば考え方も人生の過ごし方もまったく変わるだろうから」
「……元貴ってときどきすごいこと言うよね」
どういう意味だろう、と紫陽花から彼の方に目を戻すと、彼は感心したような表情でこちらを見つめていた。
「なんていうのかな、僕じゃ思いつかないようなことを当たり前のように言うよね」
それはそうでしょ、と俺は思わず笑う。だって俺と涼ちゃんでは異なる環境のもとで育った人間なのだから、同じものに対する考え方も感じ方も当然違うものになるはずなのだ。そう説明すると、彼はそっかぁと頷いて紫陽花に視線を戻した。その目は愛おしげに細められている。
「元貴はこんなに素敵な花を咲かせてるから、きっとその元となってる土も素敵な成分でたくさんなんだろうな」
それは不慮の事故だった。
涼ちゃんがスタジオに向かう途中でバイクとの衝突事故にあったと聞いて、俺は周りの制止も聞かずにすぐに彼の運びこまれた病院へと走った。幸いにして命に別状はなく、目立った外傷もないという。信号無視のバイクとぶつかりそうになり、慌てて避けようとはしたものの軽く衝突してしまったらしい。そのまま倒れた際に頭を強く打ったらしくまだ目を覚ましていなかった。
「意識が戻ったら検査をするって。でも内出血もないし、大きな問題は無いだろうって」
よかった……と先に連絡を受けて駆けつけていたマネージャーが安心したように胸を撫で下ろす。最悪の事態をどこかで想定してしまっていた俺は、ベッドですやすやと眠る彼を見た途端に安心して脚に力が入らなくなってしまった。
「よかったぁ……」
ベッドサイドにへろへろと座り込み、布団の外に置かれている彼の腕にそっと触れる。あたたかい、生きてる、よかった。安堵して大きく息を吐いたその時
「ん……」
小さな呻き声をあげ、涼ちゃんの瞼が軽く震えてからゆっくりと開いた。
「涼ちゃんッ」
俺は思わず立ち上がり、彼の顔を覗き込む。状況を把握しきれていないのだろう、戸惑いの色を浮かべながら彼はこちらを見た。
「あれ?えっと……」
「涼ちゃん!よかったぁ……ほんと良かった。大丈夫?痛いとこある?あっ、ここ病院だから。バイクにはねられたの覚えてる?」
つい早口になってまくし立てる俺に、涼ちゃんは目をぱちくりさせている。マネージャーが呆れたように息を吐いて俺の肩に手を置いた。
「落ち着けって。涼ちゃん困ってるでしょうが。とりあえず目を覚ましてよかったよ、看護師さん呼ぼう」
「あ、あの」
涼ちゃんはおろおろとしながら俺とその後ろにいるマネージャーを交互に見た。なんだろう、何か……その態度には違和感があった。
「申し訳ないんですが、おふたりは……どちら様ですか?」
頭を鈍器で殴られたような衝撃、とはこういうことを言うのだろうか。何言ってんの、こんな時にふざけないでよね、なんて笑ってみせようとおもったが、それはひとつも言葉にならない。戸惑いに揺れる彼の瞳には輪郭の定まらない俺の姿がぼんやりと映し出されていた。
涼ちゃんは俺たちのことだけじゃなくて、全部……自分が何者なのかすら忘れていた。医師の説明によれば、脳に異常はなく、事故のショックによる一時的な記憶喪失だろうということだった。
「藤澤さん自身のことや特に印象に残っていそうな思い出などいろいろとお話してあげてください。そうした記憶をきっかけに、全ての記憶が戻るというパターンは珍しくありませんから」
ショックで何も言えなくなっている俺に医師は淡々と説明を続ける。隣に座って説明を受けているマネージャーが何か医師に質問をした。音は聞こえているのに言葉の意味はひとつも理解できないような、ただ滑るように音が流れていってしまうような感覚があった。
「大森くん」
涼ちゃんの声にはっとなって顔を上げる。いつの間にか説明を受けていた診察室から彼の病室へと戻ってきていたらしい。マネージャーは手続きかなにかにでも行ったのか部屋の中に姿は見当たらなかった。
「あの、ごめんなさい……僕何も、覚えていなくって」
あぁ、と掠れた声が俺の唇の隙間から漏れる。大丈夫だよ、は違うか。なんだろう、こういう時ってなんていえばいいんだろう。急に記憶を失って、1番不安なのは彼だろうに、気遣うように俺を見るその姿に目頭が熱くなってしまう。
「名前……」
「え?」
「俺のこと、元貴って呼んでよ……涼ちゃんは、そう呼んでたから」
彼は戸惑ったように頷く。
「ありがとうございま……あ、敬語は変なのかな。ありがとう。さっきマネージャーさんもいろいろ教えてくださったんだけど、まだいまいち理解が追いついてなくて。ごめんなさい。元貴……くんは、同じバンドのメンバーなんだよね?」
俺と涼ちゃんが付き合っていたことは周りには話していない。恋人であることを話すべきかどうか迷って俺は言葉に詰まった。
「元貴くん?」
怪訝そうに彼は俺の瞳を覗き込む。
「あ……ごめん。そう、その通り」
「ごめんなさい、急にこんなことになって困るよね。とりあえず今日はこのまま退院できるらしいし、明日キーボードに触れてみて、そしたら記憶も戻るんじゃないかってさっきマネージャーさんが」
「涼ちゃん」
ぐるぐると言葉にならない感情が俺の中に渦巻いて、思わず彼の声を遮った。彼に伝えたい言葉はたくさんあるはずなのに何も声になってくれない。とにかく無事でよかったよそれがいちばんなんだよ、謝んないでよ涼ちゃんは何も悪くないのに、記憶早く戻るといいね、涼ちゃんプリンめちゃくちゃ好きなんだよ食べたら思い出すかなぁ、呼び捨てでいいよ元貴って呼んでよ、なんで俺のこと覚えてないの俺たち付き合ってたんだよ、涼ちゃん、涼ちゃん、
「……無理は、しないで」
きっとこれも伝えたい言葉のひとつだった。でもいちばんではないはずだった。最も伝えたかった言葉は丁寧に包まれて仕舞いこまれた。好きだよ。そう言いたいのにどうしてか言えなかった俺の声はみっともなく震えていた。涼ちゃんは少し安堵したようにふわっと笑う。優しげにその目が細められる。その動作はよく見慣れた彼のものであることに違いはないはずなのに、何故なのだろう。まるで遠い。
「ありがとう」
土を失った紫陽花の色はどうなるのだろう。咲いた時のそのままの色を保ち続けるのか、それとも色は変わるのか。
もしくは……養分を失ってただ枯れ行くだけなのだろうか。
「ここよく俺と散歩してたんだよ……俺が徹夜明けの早朝とか、ふたりとも寝付けない深夜とか、人の少ない時間帯にね」
「ちょうど今みたいな時間だ」
そうそう、と俺は苦笑いを浮かべながら頷く。早朝の住宅街には俺たち以外に人影はない。昨晩降った雨のせいで濡れたアスファルトの匂いがやけに鼻につく。
涼ちゃんの記憶は戻らないまま3週間が経った。俺も若井も様々な思い出話を彼に共有したが、どれも記憶を思い出すきっかけにはなってくれていなかった。幸いにして楽器は身体が覚えているらしく全て問題なく演奏できたため、仕事に支障は生じていない。それが本当によかったと彼は話していた。仕事できなくなっちゃってたら迷惑かけるどころの話じゃないもんね、とかなんとか言って。
それでも彼は失くした記憶を取り戻そうと努めていた。好きだったものやかつての習慣などを周りに聞いては試すなどしていて、それで今日は俺が散歩に誘ったのだ。
「元貴くんとふたりでよく散歩してたの?」
彼はちょっと驚いていた。俺はまだ、彼に自分と付き合っていたことは言えていなかったので当然の反応だった。記憶を失った彼が変わらずに男性を好きになるかは分からなかったし、少なくとも俺に対してそういった意味での好意を抱くような素振りもなかった。その事実を伝えて、彼の表情に否定の色が宿るのが恐ろしかったのだ。
「俺が散歩したくて、でもひとりはいやだからそれでよく付き合ってもらってたの」
これは嘘だ。本当に散歩したがりだったのは彼の方で、でもそうやって彼と歩く時間が俺は好きだったから、眠い目をこすりながら彼についていったものだった。
「そうなんだ……でもいいね、こういうのなんか楽しいね」
よければ変わらずに誘ってよ、なんて彼は笑う。俺はなんと返したらいいのか分からなくなってしまって、曖昧に笑った。
「わ、紫陽花だ」
ふと彼が足を止める。露に濡れた葉っぱは瑞々しげだが、その花の色は前に見た時より褪せはじめていた。
「たくさん咲いてるね……あっ、あれとか色が違うな」
なんだか前にもこんな話をしたな、と懐かしくなって笑みを浮かべる。
「紫陽花の花の色が違う理由って知ってる?」
覚えてる?とはあえて聞かなかった。なんとなく俺は、彼がこのまま記憶を取り戻さなくても仕方の無いことのような気がしていたし、それならばあえて昔の記憶をたどらせるようなことをしなくてもいいんじゃないかと思い始めていた。ううん、と首を振る彼に
「土が酸性かアルカリ性かで変わるんだって。これは青色だから、きっとここの土は酸性が強いんだね」
へぇ、と彼は感心したように頷く。
「元貴くんって本当に物知りだよね、すごいなぁ」
彼の柔らかな指が少し褪せた青色に触れる。
「なんだか人みたい」
「え?」
その言葉に思わず俺は顔を上げて彼を見た。すると彼はちょっと恥ずかしそうに笑う。
「あ……なんだろう、なんでかふとそう思ったんだよね。育つ時の環境によって未来が異なるわけだから……紫陽花にとっての土は人にとっての経験みたいなものなのかなって」
僕、青色の紫陽花って結構好き。そう言って彼は人差し指の背で優しく撫でるように紫陽花に触れた。
「でも元貴くんが紫陽花ならこの青よりもきっとずっと素敵な色なんだろうね、たくさんの素敵な経験が元貴くんみたいな人を作り上げているんだろうなぁ」
目頭が熱くなる。それを誤魔化すようにして俺は笑ったけれど、視界はぼやけた。なんで俺は、記憶を失った君を全く別のもののように感じていたのだろう。例え土から引き離されたとて、その紫陽花が同じ紫陽花であることに変わりはないのに。かつてその土から栄養を得た事実は変わりようがないのに。記憶を失ったとて君は藤澤涼架であることに変わりはなくて、きっとそのどこかには俺も息をしている。
「涼ちゃん」
ならば、それでいい。初めからだっていいよ。
俺が好きになったのは、紛れもなく君なのだから。
「好きだよ」
※※※
梅雨は苦手だけど紫陽花は好きです☔
青色の紫陽花には「辛抱強い愛」という花言葉もあるようです
明日からは新しい中編の連載を始めます!よろしくお願いします〜
コメント
10件
話がうますぎる……。すごいなぁ。言葉遣いとか、めちゃくちゃうまい。尊敬します…!
紫陽花ってかなり綺麗だから雨の水滴が、ついたらもっと綺麗に見えるのがまたいいよね😍次のお話も楽しみっ!
もう一度、💛ちゃんに好きと伝える♥️くんが、好きです🥹 そして、今日から紫陽花見るたびにこのお話、思い出します✨