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その夜から、今度は浜崎くんから言われた数々の暴言や
殴られて床に這い蹲る自分、あの時の屈辱と痛みが鮮明に蘇る。
ネクタイで首を絞められ
死を覚悟した高校時代が悪夢としてフラッシュバックし
僕の精神を蝕んでいった。
焦って起き上がれば、全身から嫌な汗を流していた。
呼吸は乱れ、心臓は警鐘を鳴らすように激しく打ち続ける。
逃げられないって思う、心が縛られていく感覚。
まるで透明な鎖でがんじがらめにされているようだった。
敦が心配して声をかけてくれる度に、僕は自分の弱さを突きつけられ
自分を責めることしかできなかった。
彼の優しい眼差しが、僕にはあまりにも眩しすぎた。
でも、話す勇気がなかった。
敦に言ってしまえば、また心配をかける。
彼は今、自分のブランドを立ち上げて
年収もぐんと上がり、店も前より有名になり
ただでさえ忙しいのに、僕のことでこれ以上負担をかけたくなかった。
せっかく手に入れた、やっと築いたこの〝日常〟が脆くなる気がして。
この穏やかな日々が
僕の過去のせいで壊れてしまうのではないかという恐れが、僕の口を閉ざさせた。
だから、決めた。一人で何とかしようと。
「ひろ、今日どこか出かけるの?」
朝食の準備をしながら、敦が振り返って尋ねた。
その声はいつも通り優しく、僕の心臓を締め付けた。
「あっはい、好きなBL漫画家さんの新刊の発売日なんです!」
この3年間で一番真っ直ぐな声で、嘘を吐いた。
声が震えないよう、必死に平静を装った。
敦には仕事がある。
敦は小さい頃からショコラティエになるのが夢だった
実力だって十分すぎるくらいにあって
ずっと応援してきた、だからこそ
彼の夢を、僕のせいで邪魔したくなかった。
敦に、迷惑をかけられない。
だから僕は、一人で精神科に行くことにした。
◆◇◆◇
「……じゃあ、今日はここまでにしましょうか」
やっとの思いで伝えた断片的な過去と症状に、先生は静かに頷いた。
僕の言葉一つ一つを、丁寧に拾い上げてくれているのがわかった。
優しい表情だけど
どこか少し距離を置くような眼差しが、僕の心を少しだけ怖がらせた。
まるで、僕の内側にある暗闇を見透かされているような気がして。
「現時点で、PTSDの可能性が非常に高いです。はっきりした診断名として、記録に残しておきますね」
──ああ、やっぱり。
どこかで薄々わかってた。
最近の自分の状態が、尋常ではないことは。
自分がおかしくなってるって。
だけど
ソレが「病名」になった瞬間に、身体がずしんと重くなった気がした。
まるで、見えない鉛の塊を背負わされたような感覚。
僕の抱えていた漠然とした不安が、具体的な形を持って僕を押し潰そうとする。
「本当はもう少し詳しくお話を聞いて、カウンセリングやお薬のことなどもご説明したいのですが…」
先生の声が、遠くで聞こえる。
僕の耳には、その言葉の半分も入ってこなかった。
「今日の様子だと、これ以上はちょっと難しそうですね」
僕の目は焦点が定まらず、ただ一点を見つめていた。
……うまく、声が出なかった。
喉が張り付いたように乾き、言葉の欠片すら紡ぎ出せない。
「すみません」とか「ありがとうございます」
なんて受け答えも、まともなトーンで出来ない。
声を出そうとすると、喉の奥から何かがせり上がってくるような不快感があった。
ずっと、喉の奥に棘が刺さってるみたいだった。
息をするたびに、その棘が僕の気管を刺激し、苦しさを増幅させる。
どうにかして話そうとしても、うまく言葉が出てこない。
頭の中は真っ白で、思考が停止しているようだった。
涙を我慢するのに精一杯だった。
一度溢れてしまえば、もう止まらない気がしたから。
先生は少しだけ考えるような間を置いてから、やわらかく微笑んだ。
その微笑みが、僕の凍りついた心に、微かな温かさをもたらした。
「パートナーの方がいらっしゃるんですよね? 明日、よければ一緒に来ていただけますか」
「そちらの方にも、今後の治療のことや、サポートの方法などをご説明できたらと思います」
先生の言葉は、僕の心に重く響いた。
「……はい」
かすれるような声で、頷くのがやっとだった。
敦に、僕のこの「病気」のことを話さなければならない。
その事実が、僕の胸を締め付けた。
◆◇◆◇
敦に言うの、嫌だな。
幻滅、されないかな……。
敦に、トラウマの元凶である元カレ・浜崎くんにされた酷いことはいくつか話したことはあったし
それこそ、僕を浜崎くんから守ってくれたのは敦だった。
それでも、僕のこんな弱い部分を知ったら、彼は僕から離れていってしまうのではないか。
そんな恐れが、僕の心を支配していた。
でも、全部隠して
一人でなんとかしようとして、結局こうなってるんだから。
もう、これ以上、一人で抱え込むのは無理だった。
敦にはちゃんと、言わないと。
僕が本当に彼を大切に思うなら、隠し事はすべきではない。
僕は診断書だけを受け取って、それを二枚折にして
エコバッグに入れていたトートバッグに入れる。
その紙の重みが、僕の抱える現実の重さのように感じられた。