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「グランの若き将軍よ」
バルカは、遠く敵陣に翻る旗を見つめていた。
その向こうにいる男の姿など、見えるはずもない。
それでも、まるでスピリタス本人に語りかけるように呟いた。
「私を追いかけてきたのか」
アルペスを越えた。
トレビで破った。
トラシムで屠った。
カンナルでは、グランそのものを滅亡の淵まで追い込んだ。
それでも、この国は立ち上がった。
そして今。
かつて自分が攻め込んだグランから、一人の若者が海を越え、
自分を追ってここまで来た。
「その戦いでわかる」
バルカの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「だが、私は戦いの何たるかを心得ている」
視線の先では、両軍の歩兵が激突していた。
「勝つためには――何をするべきかもな」
戦場では、グラン軍が押し始めていた。
投槍を浴びせた重装歩兵が、そのまま盾を並べて前進する。
対するバルカ軍の前衛は傭兵と軽装兵。
その後ろにはヌミダスの市民兵。
戦い慣れたグラン重装歩兵を前に、次第に隊列が崩れ始めていた。
一歩。
また一歩。
バルカ軍が後退する。
やがて前衛の兵たちが耐えきれず、後方へ逃げ始めた。
「押せ!」
グラン軍から歓声が上がった。
「敵は崩れたぞ!」
だが――。
逃げる兵たちの前に立ちはだかった者たちがいた。
第四列。
バルカとともに幾多の戦場を渡り歩いてきた古参兵。
その数、一万。
彼らは逃げてくる味方を見ても、道を開けなかった。
「どけ!」
市民兵の一人が叫ぶ。
「前が崩れた! 通せ!」
古参兵は答えない。
ただ、剣を抜いた。
次の瞬間。
逃げ込んできた兵の胸を、その剣が貫いた。
「……え?」
敵も。
味方も。
何が起きたのかわからなかった。
さらに一人。
もう一人。
古参兵たちは無言のまま、逃げてくる味方を斬り伏せていく。
「な、何をしている!」
「味方だぞ!」
「やめろ!」
叫び声が上がる。
だが古参兵たちは、一歩も退かない。
前にはグラン軍。
後ろには――味方を斬る古参兵。
市民兵たちの顔から血の気が引いた。
逃げ場がない。
「う……」
一人の兵士が振り返った。
正面からグラン軍が迫っている。
再び後ろを見る。
血に濡れた剣を持つ古参兵たちが、無表情にこちらを見ている。
どちらへ行っても死ぬ。
ならば――。
「うわあああああああッ!」
兵士は絶叫し、グラン軍へ向かって走り出した。
それをきっかけにしたように、市民兵たちが次々と反転する。
「殺せええええ!」
「突っ込め!」
「うおおおおおおッ!」
先ほどまで逃げ惑っていた兵たちが、狂ったように突撃を始めた。
盾も。
隊列も。
命さえも顧みない。
ただ目の前の敵を殺すためだけに、グラン軍へ襲いかかっていく。
その豹変に、今度はグラン兵たちが息を呑んだ。
「なんだ、こいつら……!」
押していたはずの戦線が止まる。
そして――押し返される。
丘の上からその光景を眺めながら、バルカは静かに言った。
「人は勇気だけで戦うのではない」
血と怒号に覆われた戦場を見下ろす。
「逃げ場を失った人間ほど、恐ろしいものはない」
そして。
「戦場の恐怖こそが――死兵を作り出すのだ」
「将軍、このままでは……」
スピリタスの副官が、押し殺した声を漏らした。
「わかっている」
スピリタスは短く答えた。
戦況は、明らかに変わっていた。
先ほどまで優勢だったグラン軍の重装歩兵が、じりじりと後退している。
敵の前衛を押し破ったところまではよかった。
だが、その後ろから現れた古参兵。
バルカとともに幾多の戦場を生き抜いてきた歴戦の猛者たちが加わった瞬間、
戦場の景色が一変した。
さらに、退路を断たれたヌミダス市民兵までが死に物狂いで襲いかかってくる。
グラン軍の中央が押されていた。
「敵の狙いは……」
副官が呟く。
「ああ」
スピリタスにも見えている。
敵はただ押しているのではない。
中央に兵力を集中させている。
古参兵を先頭に、その後ろから次々と兵を送り込み、一点へ圧力をかけ続けている。
その陣形は、巨大な槍の穂先のようだった。
鋒矢。
敵中央が鋭く突き出し、グラン軍の戦列へ食い込んでいる。
対するグラン軍の中央は、その圧力を受けて弓なりに押し込まれていた。
「中央突破……」
スピリタスが呟いた。
ここを破られれば、軍は左右に分断される。
指揮系統は寸断され、それぞれが孤立する。
そして各個に包囲される。
敵の歩兵は四万。
こちらは三万。
消耗戦になれば、いずれ押し切られる。
――明確な勝ち筋だった。
「さすがだな」
スピリタスは思わず笑った。
副官が驚いて振り向く。
「将軍?」
「いや」
スピリタスは戦場の向こうを見た。
その先にいる男。
幼い頃から、その戦いを聞いて育った。
グランの軍団を幾度となく打ち破り、
カンナルでは王国そのものを滅亡寸前まで追い込んだ男。
バルカ。
「ようやく、あなたと戦っている気がしてきた」
その頃。
バルカもまた、グラン軍の戦列を見つめていた。
中央が沈んでいく。
あと少し。
もう少し押せば――割れる。
「グランの若き将軍よ」
バルカは静かに呟いた。
「どうする?」
その顔には、笑みすら浮かんでいた。
「中央を救うために予備兵を入れるか?」
入れれば、こちらもさらに兵を投入する。
「それとも両翼から兵を回すか?」
そうすれば戦列が薄くなる。
どちらを選んでも構わない。
戦場とは、敵に選択を迫る場所だ。
そして――。
どちらを選んでも負ける二択を押しつける。
それが戦術というものだ。
「さあ」
バルカは遠くの敵将へ問いかけるように呟いた。
「次の手を見せてみろ、スピリタス」
コメント
1件
いやあ、今回の戦術の応酬、本当に痺れました。バルカの「逃げ場を失った人間ほど恐ろしいものはない」という台詞が生々しくて、味方を斬らせる二重の包囲には背筋が冷えました。スピリタスが「ようやくあなたと戦っている気がしてきた」と笑うシーンも、対照的な二人の将器が浮き彫りになってグッときました。バルカの「次の手を見せてみろ」で幕切れ、もう続きが気になって仕方ないです!
眠狂四郎
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