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駅のホームに駆け込んだが、終電を逃してしまった。息を切らし、ベンチに腰を下ろした瞬間、何気なくスマートフォンを開き、位置情報アプリを立ち上げた。画面に映ったのは、拓也の赤い印。点滅する赤は、佐々川家の屋敷ではなく、意外な場所を示していた。私は階段を上りバス停へと向かう。
Lueurから然程離れていない、小さなワインバー。
時刻はすでに23時を回っている。こんな時間に拓也があの店にいる理由が、頭の中でいくつも渦を巻いた。仕事の打ち合わせ? まさか。クライアントとの会食なら、もっと高級な場所のはずだ。それとも、誰かと……。指が勝手にスクロールして、店の名前を検索してしまう。「ランコントル」。
口コミは少ないが、どれも「大人の隠れ家」「静かで落ち着く」「バーテンダーがすごい」と好意的なものばかり。写真を見ると、薄暗い照明に照らされた木目のカウンターと、棚に並ぶ無数のボトル。確かに拓也の好みには合いそうだ。胸の奥がちりちりと疼く。
LINEの返事もなく、マンションにも帰らない。
風が冷たくなった。停留所の屋根を叩く音が、遠くで小さく鳴っている。もうバスは来ない。私はスマホを握ったまま立ち上がれなかった。
赤い点滅は、動いていない。拓也はまだそこにいる。私は深く息を吐いて、もう一度画面を見つめた。指先が震えるのを抑えながら、メッセージアプリを開く。打ちかけた言葉を何度も消して、結局何も送れなかった。
代わりに、アプリの履歴を遡る。拓也の赤い印が今日、どんな軌跡を描いてきたのか。午後8時頃、Lueurの最寄り駅。そこから30分ほどして、少しずつ北西へ。ランコントルに落ち着いたのは、21時47分。そこから動いていない。
Lueurの最寄り駅……田川亜美と一緒なのか。一人なのか。ベンチの冷たさが尻から背中まで伝わってくる。私はコートの襟を立てて、もう一度店名を呟いた。
「……ランコントル」
口に出すと、なぜか現実味が増した。そこに拓也がいる。実際に、今この瞬間も。私は立ち上がった。足が重い。けれど、歩き出さずにはいられなかった。最終便はない。赤い点滅が、私を呼んでいる気がした。
「一緒にいるのは……山崎美咲?田川さん?」
脳裏に浮かぶのは、山崎美咲とグラスを交わす拓也、田川亜美と微笑む拓也の姿ばかりだった。私はそれを振り払い、タクシーに手を挙げた。
「お客さま、どちらまで?」
「|Rencontre《ランコントル》というワインバーまでお願いします」
「かしこまりました」
流れるネオンサインが水槽で泳ぐ金魚のように見えた。水の中に閉じ込められたような閉塞感、息が詰まり、車のクラクションが遠くに聞こえた。緊張で指先が震える。拓也は誰といるのだろう……。タクシーは、煉瓦造りの蔦が絡まる建物の前で停まった。
「ありがとうございます」
Rencontreと彫られた看板を見上げた私は、重厚なドアを押し開ける。アメイジング・グレイスの優しいメロディが静かに迎えた。店内は暖かなオレンジの照明に包まれ、煉瓦の壁に沿ってカウンターと小さなテーブルが並んでいる。ジャズのサックスが低く響き、グラスの音が心地よく混じる。カウンター席に座った私は息を潜め、奥のテーブル席を見渡した。
いた。拓也がいた。
向かいに座るのは、田川亜美だった。二人ともワイングラスを手に、距離が近い。亜美が何か囁くと、拓也が小さく笑う。その笑顔は、私に向けられたものとは違う。柔らかく、どこか甘く、親密だった。胸が締めつけられる。息が苦しい。亜美は私の朱色のトートバッグと同じものをテーブル脇に置いている。白檀の香りが、ここまで漂ってきた。
私はカウンターの端に座り、バーテンダーに小さく声を掛けた。
「グラスワインを……赤で」
バーテンダーが頷き、グラスを滑らせる。私はそれを握りしめ、背を向けたまま二人を見つめた。鏡越しに、拓也の横顔が映る。離婚の原因は、田川亜美との浮気だった。全身の血が逆流し、こめかみが脈打ち、指先が震えた。ペアリングを握り潰す勢いで、手のひらに、血がにじむ。
私が目をきつく瞑っていると、隣のスツールが軋んだ。その音に、私はゆっくりと目を開けた。見知らぬ男性だった。三十代半ばくらいか、ダークグレーのスーツに焦茶のネクタイを緩め、穏やかな笑みを浮かべている。カウンターの灯りが、彼の瞳に柔らかく反射していた。
「……ひとり?」
低く落ち着いた声。私はワイングラスを握りしめたまま、わずかに頷いた。
「ええ、まあ……」
男性はバーテンダーにジェスチャーで注文し、私の方に体を少し向けた。
「悪いところを見てしまった感じかな。あっちのテーブル、知り合い?」
#モテテク
#大人の恋愛
視線が奥の拓也と亜美にちらりと移る。私は息を吐き、苦笑いを浮かべた。
「夫……です」
男性の眉がわずかに上がったが、すぐに同情するような表情に変わった。
「それは……大変だ。俺は倉橋。隣の席、失礼するよ」
彼は名刺を差し出さず、代わりにグラスを軽く掲げた。バーテンダーが運んできたウイスキーを一口飲み、私のグラスに目を落とす。
「赤ワインか。強いね」
私は奥のテーブルをもう一度見た。拓也が亜美の肩に手を置き、何か耳元で囁いている。亜美がくすりと笑った。その瞬間、胸の奥が熱くなった。
「離婚届を出すように言われているんです」
言葉が、勝手に零れた。倉橋は驚いた様子もなく、静かに頷いた。
「辛いな」
私はグラスを回し、赤い液体が揺れるのを見つめた。アメイジング・グレイスが静かに流れ、バーチャイムが遠くで鳴る。奥のテーブルでは、拓也と亜美が立ち上がろうとしている。私はグラスを置いた。倉橋が穏やかに微笑む。
「彼のところへ行く? それとも、もう少しここにいる?」
ここで立ち上がり、拓也の頬を叩き、亜美を罵る。それは感情の爆発にすぎない。なんの解決にもならない。証拠を固め、来るべき時に彼らに突きつける。
私はバッグからスマホを取り出し、微笑み合う二人の写真を隠し撮りした。シャッター音はオフにしてある。
拓也の横顔は柔らかく、普段私に見せるよりもずっと穏やかだ。亜美は髪を耳にかけながら小さく笑い、拓也の肩に指先を滑らせている。その仕草が、妙に自然で、胸の奥を鋭く抉った。私は息を殺して、もう一枚撮った。今度は角度を変えて、二人の手が触れ合っている瞬間を。拓也の薬指に光る結婚指輪が、亜美の細い指と重なるように見えて、吐き気がした。
ランコントルの店内は予想以上に広く、照明が暗いおかげで私の姿を隠してくれた。私はスマホをバッグに戻し、深く息を吸った。肺が冷たい空気で満たされる感覚が、わずかに頭を冷やしてくれた。まだ動揺している。まだ、足が震えている。でも、さっきまでの衝動的な熱は、少しずつ引いていく。代わりに、別の何かが胸の底で固まり始めていた。静かで、冷たくて、重いもの。
拓也は亜美に何かを囁き、彼女は首を傾げて笑った。その笑顔が、昔の私に向けられていた頃のものと重なる。いや、違う。あの頃の拓也は、こんなふうに目を細めてはいなかった。もっとまっすぐに、もっと必死に私を見ていた。
写真はもう三枚。十分だ。これ以上撮る必要はない。私は倉橋にぎこちなく微笑んだ。
「ここで……ご一緒してもよろしいですか?」
「もちろん、大歓迎だよ」
拓也と亜美は私に気付くことなく会計を済ませ、重厚なドアをゆっくりと閉めた。その時、私の中でも何かが閉じたような気がした。
私はグラスを置いたまま、倉橋に視線を移した。
「実は……私、ジュエリーデザイナーなんです」
「どこ?」
「南青山の……」
倉橋の眉が少し上がった。興味深そうにグラスを回しながら、静かに頷く。
「へえ、Lueurの? 斬新なショーウィンドーだよね」
私は小さく息を吐いた。
「ええ、そこに勤めていて……今、社内のコンペで自分のデザインを発表したばかりで」
言葉が自然と続いた。
「……で?コンペのテーマはなに?」
「テーマは……Eternal Bond」
ジャズが優しく流れ、バーチャイムが遠くで鳴る。倉橋が新しいグラスを滑らせて手に取る。琥珀色のウイスキーが静かに揺れる。
「永遠の絆、か」
私は小さく笑った。苦笑いだった。倉橋は興味深そうに身を乗り出した。
「実は……私の作品が、彼女に盗作されてしまって」
「さっきの女性?」
「……はい」
盗作の疑い、3日間の猶予、亜美の冷たい目、そして拓也とのすべて。倉橋は黙って聞き、時折小さく頷くだけだった。押しつけるような質問は一切ない。
「……なにやってるんだろう……私」
倉橋はウイスキーを一口飲み、穏やかに微笑んだ。
「デザイナー……指先で人の想いを形にする仕事だろ? 俺はただのサラリーマンだから、そういうの、尊敬するよ」
「人の想い……ですか」
「そう」
彼はカウンターに肘をつき、私をまっすぐ見た。
「で、彼とは別れるの?」
私は苦笑した。
「迷ってます」
倉橋は驚いた様子もなく、静かにグラスを掲げた。
「なら、今夜はデザイナーの君に、一杯おごるよ。新しいデザインと、幸運を祈って」
私は少しだけ肩の力を抜いて、グラスを合わせた。軽い音が響く。
「ありがとうございます」
「……で、永遠の絆、君はどう描くつもり?」
私はカウンターの木目を指でなぞりながら、ゆっくりと語り始めた。
「最初は、メビウスの輪をイメージしてたんです。表も裏もなく、永遠に続く一本の輪。でも……」
倉橋は黙って聞いている。静かな瞳が、私の言葉を優しく受け止めてくれる。
「今は違う形を考えています。壊れた輪を、もう一度ねじって繋ぐ。傷の部分に光を通すと、かえって深い輝きが生まれるような……そんなリングにしたい」
私はグラスを握りしめた。
「永遠の絆って、完璧なものじゃないと思うんです。傷ついて、欠けて、それでも光を失わないもの。それが本当の永遠なんじゃないかって」
倉橋はゆっくりと頷いた。
「いいな、それ。痛みを知ってる人のデザインだ」
彼はウイスキーを一口飲み、静かに続けた。
「俺も昔、似たようなことがあってさ。永遠だと思ってたものが、ぽろっと崩れた。でも、壊れたところから新しい形が生まれることもある」
私は彼の横顔を見た。穏やかで、どこか深い傷を隠したような表情。
「倉橋さんは……今は?」
彼は小さく笑った。
「今は、一人で飲んでるよ。でも、それでいいと思ってる」
倉橋が静かに言った。
「君のデザイン、絶対、いいものになる。傷を知ってる人の手から生まれる絆は、きっと強い」
私は頷き、グラスを空にした。
「ありがとうございます」
カウンターの灯りが、私の指先を優しく照らしていた。グラスの底に残る赤ワインが、静かに揺れている。
「佐々川さん、この店の名前の意味、知ってる?」
倉橋が静かに訊いた。
「……え、知らないです」
「Rencontre……フランス語で『出会い』なんだよ」
彼はグラスを軽く回しながら、穏やかに続けた。
「偶然の出会い、運命の出会い。いろんな意味があるけど、ここに来る人はみんな、何かを求めてる」
「……出会い」
私は呟いた。喉が少し熱い。倉橋は優しく微笑んだ。凪の海のように静かで、深い笑みだった。目尻の細かな皺が、優しさと経験を語っている。
「君は今、何を求めてここに来た?」
私は一瞬、言葉を失った。奥のテーブルはもう空で、拓也と亜美の残り香だけが薄く漂っている。
「……確かめに来たんです。失ったものが、本当に失われたのかを」
倉橋は頷き、静かにウイスキーを傾けた。
「だったら、もう確かめられたんじゃない?」
私はゆっくりと息を吐いた。胸の奥が、ほんの少し軽くなった気がした。
「ええ……きっと」
彼はグラスを置き、私をまっすぐ見た。
「新しい出会いは、いつだって始まってる。壊れた絆の向こうに、別の光が待ってることもある」
私は指先を見つめた。サファイアのリングを嵌めていない左手薬指が、灯りに白く浮かぶ。
「3日後、コンペの結果が出ます。そこで、私のデザインが……」
「勝つよ」
倉橋が静かに言った。断言するような、優しい確信。
バーチャイムが遠くで鳴り、新しい客が入ってきた。アメイジング・グレイスが、静かに流れ続ける。私はグラスを空にし、立ち上がった。
「ありがとうございました、倉橋さん」
彼は軽く手を挙げ、穏やかに微笑んだ。
「また、どこかで」
私はドアを開けた。外は冷たい夜風が吹いていた。でも、心の中だけは、ほんの少し温かかった。Rencontre――出会い。私は夜の街へ歩き出した。3日後、新しい永遠を、自分の手で創るために。そして、奪われたものを、取り戻すために。