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雨音が窓を叩く音で目が覚めた。木村陽太は腕時計を見た。午前七時十五分。いつもより早い起床だった。彼は広告代理店「クリエイティブワークス」のアートディレクターとして、今日もクライアントとの打ち合わせを控えていた。陽太は窓の外を見つめながら、雨の朝の静けさに身を委ねた。
「また同じ夢か…」
陽太は数ヶ月前から同じ夢を見続けていた。古い書店で一人の女性と出会う夢。彼女の名前も顔も覚えていないのに、どこか懐かしさを感じる不思議な夢だった。
シャワーを浴び、朝食を摂り、陽太はアパートを出た。雨は小降りになっていたが、念のため傘を持って駅に向かった。電車は朝のラッシュで混雑していたが、いつものことだった。彼はスマートフォンを取り出し、今日のミーティングの資料を確認した。
新しいスポーツドリンクのキャンペーン企画。若者向けのエネルギッシュなイメージと、健康志向の大人たちにも訴求できるようなデザインが求められていた。陽太はすでにいくつかのアイデアを練っていたが、まだ何かが足りないと感じていた。
オフィスに着いた陽太は、デスクに座り、コンピューターの電源を入れた。同僚たちが次々と出社してくる中、彼は黙々と作業を続けた。昼食時、同僚の誘いを断り、陽太は一人で外出することにした。
「ちょっと本屋に寄りたいんだ。インスピレーション求めて」
雨は上がり、空には薄い雲が広がっていた。彼は会社から数ブロック離れた古書店街に足を運んだ。そこには大型チェーン店には無い、独特の魅力を持った小さな書店が点在していた。
陽太が立ち寄ったのは、路地の奥まったところにある「時の葉書店」という小さな古書店だった。ドアを開けると、古い本の香りが鼻をくすぐった。店内は予想以上に広く、天井まで届く本棚が迷路のように並んでいた。
「何かお探しですか?」
優しい声に振り向くと、年配の店主らしき男性が微笑んでいた。
「いえ、ただ見ているだけです。デザインの参考になるものがあればと思って」
「そうですか。どうぞごゆっくり」
店主は丁寧に頭を下げ、カウンターに戻っていった。
陽太は本棚の間を歩き回り、時々手に取った本のページをめくった。芸術書、写真集、古い広告デザインの本…様々なジャンルの本が混在していた。彼は時間を忘れて本の世界に没頭した。
そして、彼女と出会ったのは、店の一番奥の書棚の前だった。
「すみません、上の本を取っていただけますか?」
陽太が振り向くと、小柄な女性が困ったような表情で見上げていた。彼女は紺色のワンピースを着て、肩にかけた鞄からノートの一部が覗いていた。
「どの本ですか?」
「あの、『翻訳者の視点』という本です。緑色の表紙の」
陽太は棚の上段から指定された本を取り、女性に手渡した。
「ありがとうございます」彼女は笑顔で礼を言った。その瞬間、陽太は奇妙な既視感に襲われた。
「もしかして…お会いしたことありますか?」思わず口にしてしまった。
女性は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。
「さあ、どうでしょう。私は佐藤美月と申します」
「木村陽太です」
二人は書店の片隅にある小さな読書スペースで話をすることになった。美月は出版社で翻訳の仕事をしていると言った。主に海外の小説や詩集の翻訳を担当しているとのことだった。
「この書店、素敵ですね。初めて来たんですか?」美月が尋ねた。
「いえ、実は…」陽太は言葉を選びながら続けた。「何度か来たことがあるような気がするんです。でも、はっきりとは覚えていなくて」
美月は不思議そうな表情を浮かべた。「私もそんな感覚があります。初めて来たはずなのに、どこか懐かしい」
会話が弾む中、陽太は時計を見て飛び上がった。「すみません、会社に戻らないと。また会えますか?」
美月は少し考えてから答えた。「土曜日の午後、ここでまた会いませんか?」
「ぜひ」
二人は連絡先を交換し、別れた。陽太はオフィスに急ぎながら、なぜか胸が高鳴るのを感じていた。