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「……情けない顔」
朝日の中、レジーナは鏡に映る自身の顔に呟いた。
一晩泣いたせいで腫れぼったくなった目元。ただでさえ良くない目付きを更に悪くしている。
「……『ヒール』」
治癒魔法をかけてみるが、やはりあまり効果はない。
目の腫れは傷ではなく状態異常。通常の治癒魔法では治せない。
それこそ、「王国中に蔓延る死の病を祓った」とされる伝説の聖女や、その再来と言われるエリカの治癒魔法でなければ。
それでも、レジーナは治癒魔法を重ね掛けする。
人目を引くため、この顔で部屋の外には出られない。
人前で弱味を晒すのは嫌いだ。
「『ヒール』」
悪あがき。
それでも、寝起きよりはいくらかマシになった気はする。
最後に駄目押しの一回をかけ、漸く諦めがついた。
レジーナは厚い化粧で目元を誤魔化し、鏡の前を離れる。
家に帰るため、私物を纏めた鞄を持ち上げた。
部屋を出る足取りは重い。廊下を歩いて階段を降り、玄関ホールへ出た。
そこで、待ち構えていた女生徒たちに囲まれてしまう。
「あら? レジーナ様はもうご実家へ帰られるのですか?」
「今回のこと、非常に残念でしたわね」
クスクスという笑い声。悪意ある眼差し。
レジーナは内心でため息をつく。が、顔には出さない。
無言を貫くレジーナを前に、彼女らの嘲笑は続く。
「リオネル様も酷なことをなさるわよね?」
「ええ、本当に。……でも、お気持ちは良くわかりますわ」
「プライセルとフォルストではそもそもの釣り合いが、ねぇ……?」
王国でも屈指の権勢を誇るプライセル侯爵家。
リオネルはその次期当主であり、王族との縁も深い。眉目秀麗で剣にも秀で、彼の妻の座を望む者は後を絶たない。
レジーナは長い間、そうした令嬢たちの嫉妬を買い、幾度となく嫌がらせを受けてきた。
だが、それももう過去のことだ。
「どいてくださる?」
「まぁ、レジーナ様ったら、そんなにお急ぎにならなくても」
「私たちは少しでもレジーナ様の御心をお慰めしたいと考えていますのよ?」
さっさと立ち去りたいレジーナを、女生徒たちは逃さない。
婚約者の座を失ったことがよほど嬉しいのだろう。彼女たちの顔には、隠しきれない愉悦が浮かんでいた。
「レジーナ様は、これからどうなさるおつもりですか?」
「あら、私も気になりますわ。今後お目にかかる機会はあるのかしら?」
「社交の場でお会いすることはもうないのではなくて?」
嘲る声が鬱陶しい。
レジーナは――今度は――大きくため息をついた。
「私がどこで何をするか、あなたたちに関係ある?」
「まぁっ……!?」
レジーナは「煩わしい」と言わんばかりに手を払う。眉間に浅い皺を刻み、不快を示した。
「今回の件は、プライセル侯爵家とフォルストの新たな取り決めによるもの。私はそれに従うだけ。あなたたちには全く関係ない話でしょう?」
囀りたければ、好きなだけ囀ずればいい。
レジーナは、彼女らの悪意に屈するつもりはなかった。
勿論、傷つくつもりも。
毅然と前を向く。
「そこをどいて」
「なっ! フォルスト風情が調子に乗らないで!」
「成り上がりのくせに、身分を弁えたらどうなの!」
レジーナは嗤う。
結局、家の名を以てしか私を貶められない人たち――
「……フォルストは、先々代より伯爵位を賜っているわ」
家の名を持ち出すのならば、家の名で応える。
この場において、伯爵位は最高位。
「弁えるべきは、一体どちらなのかしら?」
「っ!」
女生徒たちが顔を赤く染める。怒りか、羞恥か。
レジーナは一瞥し、自身を囲む集団を抜け出した。
抜けたところで、背後から怨嗟じみた低い呟きが聞こえる。
「……リオネル様に棄てられたくせに」
レジーナは振り返る。
リオネルに執着していた女生徒。子爵令嬢が歪な笑みを浮かべていた。
彼女が叫ぶ。
「平民風情に婚約者を奪われるなんて、なんて憐れなの!」
激昂した様子。その勢いは止まらない。
「それもあんなっ……、治癒魔法しか取り柄のない、下賤な女に奪われるなんて!」
彼女の言葉は、レジーナを嘲笑するだけでなく、エリカへの悪意に満ちていた。
憐れなのはレジーナだけではない。
結局、この場に居る誰も、リオネルに選ばれなかったのだから。
言い争う無意味さ。
レジーナが二度目のため息をついた時、不意に、玄関扉が開かれた。
開いた扉から、颯爽と五人の男女が入ってくる。この一年ですっかり見慣れてしまった一団。彼らの内から、長身の男性――リオネルが一歩前へ出た。
「……これは、何の騒ぎだ?」
レジーナと、対峙する女生徒たち。
その光景に何かを感じたらしい。リオネルが僅かに眉を顰める。
レジーナはリオネルをおいて、この場の最高位者――フリッツに頭を下げた。
「寮を退出するところでした。彼女たちとは別れの挨拶を」
「……そうなのか?」
レジーナが適当に口にした言葉。
リオネルが女生徒たちを見回す。
疑心に満ちた彼の視線に、彼女たちは次々に答えた。
「レ、レジーナ様の仰る通りです!」
「ええ! お別れの言葉を贈らせていただきました」
早口に告げる女生徒たち。
彼女らも、先程の自分たちの発言の危うさは理解している。言い訳が済むと、そそくさとその場を後にした。
レジーナはその背を黙って見送る。
彼女らの姿が見えなくなったところで、リオネルが再び口を開く。
「レジーナ。君をフォルストの屋敷まで送る」
「結構です。一人で帰ります」
「なぜ」と考える間もなく、レジーナは拒絶した。
リオネルの表情が固くなる。
「駄目だ。これは提案ではない。命令なんだ」
(命令?)
そこで初めて、レジーナは彼らの不穏な空気に気づいた。
リオネル一人でなく、彼らが集団で押しかけて来た理由。
内心の戸惑いと不安を押し隠し、思考を巡らす。
フリッツが横から口を挟んだ。
「ここでお前に逃げられると困るからな」
「……仰る意味が分かりません」
レジーナは困惑する。
なぜ、自分が逃げねばならないのか。
フリッツがフンと鼻を鳴らした。
「お前に、エリカに対する殺人未遂の容疑がかけられている」
「殺人っ!?」
あり得ない。
驚きのあまり、咄嗟に否定が出てこなかった。
レジーナは首を横に振る。否定しようとして、気づく。
「もしかして……」
「そうだ。一月前、お前がエリカを階段から突き落とした事件――」
「違いますっ! 何度も言いました! 私は何もしていません!」
「ハッ! そんな言い逃れがいつまで通用すると思ってる」
吐き捨てたフリッツが、憎悪の眼差しを向ける。
「シリルが突き落とす瞬間を見てんだよ! 俺とアロイスが駆けつけた時、お前まだ踊り場に居たよなぁ!?」
怒りを爆発させたフリッツ。
レジーナは無意味と分かっていても、自身の無実を主張した。
「違います。あれは彼女の手を振り払っただけ。彼女に手を掴まれて、驚いてしまって」
「止めろ。そんな主張が本気で通ると思ってんのか?」
フリッツが苛立たしげに髪をかきあげた。
リオネルが、彼を宥めるように割って入る。レジーナを見つめた。
「これ以上、ここで問答しても意味がない。君の罪は王国法で裁かれる」
彼は「だから、ここで逃がすわけにはいかない」と続けた。
レジーナの胸の内に言い知れぬ恐怖が押し寄せる。
(……もう、駄目なのかしら……)
家に連れ帰られれば、そのまま蟄居。法による裁きを受けるまで、家に留め置かれるのだろう。
法による裁きも、エリカ相手に果たして公正な裁判が受けられるかどうか。
(無理、ね……)
フォルスト家がレジーナとエリカのどちらを選ぶか、考えずともわかる。
父母とは名ばかりの家族。
選ばれるのは、彼らの期待に応えられなかった「無能」なレジーナではなく、聖女の再来であるエリカだ。
彼らがレジーナを見限ったように、レジーナももはや彼らには何の期待もしていない。
(ああ、さっさと逃げ出していれば良かった……!)
大人しく家に帰る必要などなかった。どこか遠くに逃げていれば――
悔しさと腹立たしさに、レジーナは拳を握りしめた。
不意に、柔らかな声が聞こえた。
「レジーナ様は僕が送るよ」
「っ!」
レジーナは、咄嗟に声の主を見た。
視線を向けた先、弛く微笑む少年がいた。この場にあっては不自然なほどの穏やかさ。
その笑みに、レジーナは息を呑む。
怖い――
身体が震えた。
少年――シリルが近づいて来る。その手がレジーナへ伸ばされた。
「行こう、レジーナ様。変な気を起こす前に、僕が転移魔法で送ってあげる」
「嫌っ!」
拒絶の言葉が口を衝く。
レジーナは延ばされた手を反射的に払った。
シリルが変わらぬ笑みのまま、小首を傾げる。
「平民には触れられるのも嫌? でも、ごめんね。転移には必要だから」
今度は、問答無用でレジーナの腕を掴んだ。
細い身体のどこにそんな力があるのか。
強い力で掴まれ、レジーナは逃げ出せない。
男に無遠慮に触れられる恐怖と嫌悪。
吐き気を催したレジーナの耳に、シリルとエリカの会話が聞こえる。
「エリカ、君も一緒においでよ。ついでに送るよ?」
「え、私も?」
「うん。二人まで連れていける。お屋敷でゆっくりして、リオネル達を待てばいい」
シリルの提案にエリカが笑顔で頷く。
「そうだね。私、レジーナ様とちゃんとお話してみたかったし。一緒に行こうかな」
エリカが近づく。
シリルが彼女の手を握った。三人が並んだ途端、彼は詠唱なしに転移陣を起動する。
床に広がる光の魔法陣。
シリルを中心に淡く発光した魔力が三人を覆う。
徐々に徐々に飲み込まれていくが――
レジーナは身の内に流れ込んでくるものに怯えた。
(嫌っ、嫌だ! なにコレ!? 怖い……っ!)
ヴィジョンが見える――
悍ましい何か。ドロドロとした汚泥のようなもの。
それが、たった一つの小さな光を飲み込もうとしている。
そうして、その闇の奥底に、今にも破裂しそうなほど膨らんだ喜悦が潜む。
レジーナはシリルを見上げた。自身の腕を掴んだままの彼を。
シリルは穏やかに笑っている。だが、僅かに熱を帯びた彼の瞳は一処を見つめていた。
視線の先を追う。
レジーナが捉えたのはエリカの右手。その薬指にはまる指輪が魔力の光を放っている。
レジーナは、咄嗟に指輪に手を伸ばした。
「外してっ!」
「キャアッ!」
エリカが悲鳴を上げる。
「レジーナ様!? なに、一体なにを!?」
レジーナは必死に手を伸ばす。シリルに掴まれていない左手で、エリカの腕を掴んだ。掴んだ腕を持ち上げ、エリカの視界に映す。
「外して! この指輪を、早くっ!」
「い、いや。止めてください、レジーナ様……」
鬼気迫るレジーナに、エリカが怯える。
切羽詰まったレジーナは、発光する指輪に自身の魔力を流し込んだ。
魔力干渉。高負荷を掛けて破壊を試みる。
「レジーナ! 何をしている、止めろ!」
「貴様っ! この期に及んで、エリカを害するつもりかっ!?」
リオネルの制止の声。フリッツの怒号。
それから――
「大丈夫だよ、二人とも。……魔法陣、入ってこないでね?」
シリルの声。掴まれた腕が強く引かれた。
「レジーナ様はちょっと大人しくしててね?」
彼は陣を起動させたまま、レジーナの腕をギリと捻り上げる。
痛みに、レジーナは悲鳴を上げた。けれど、エリカの腕は離さない。指輪に魔力を流し続ける。
レジーナの内に、酷く冷めた女の声が聞こえる。
――馬鹿な女。
反射的に、レジーナはエリカの腕を離しかけた。
――何がしたいのかしら? こんなことで逃げられると思ってる?
離したい衝動を抑え、レジーナはエリカを見つめる。
怯え切った顔。潤んだ瞳。エリカは震えながらこちらを見ていた。しかし、引き結ばれた唇の端が僅かに持ち上がる。
――惨めねぇ。最高に笑えるわ。もっと醜態をさらしなさいよ。
邪悪な喜び。
レジーナの手が緩みかけた。その時――
「キャァアアッ!」
ピシリという音。エリカの指輪が、亀裂が入ったと思う間もなく、目を開けていられないほどの閃光を放った。
転移陣の外にいる男たちの怒号が響く。
「エリカッ!?」
「クソッ! 何だよ、コレッ!?」
「フリッツ! 離れろ、危険だ!」
膨張する魔力。光の渦が魔方陣を越えていく。
突然に、レジーナは浮遊感を感じた。
(まさか、転移するのっ!?)
この状況で発動するのか。
レジーナは転移魔法独特の浮遊感に身構える。
身体が浮上した。一秒、二秒。浮いた身体は、直ぐに落下を始める。
だが――
(……なに、コレ)
おかしい。
常なら、一瞬で終わるはずの落下が止まらない。深く、深く、地の底まで落ちていくような感覚。
眩い魔力の光の中、レジーナは恐怖と眩暈を覚えた。目を閉じ、一秒、二秒、時を数える。
数が六十を超える頃、眩い光が突如として消えた。
だが、落下の感覚が止まらない。
恐怖と混乱が限界まで達し、レジーナはフッと意識を手放した。