2037年8月17日
横浜市・横浜第二製鉄所
人の消えた臨海工業地帯は、ゆっくりと宵闇に包まれつつあった。どこかから聞こえる蝉の声だけが無情に響いていた。
誰ひとりとして残っていない工場の入り口で、自動ドアだけは律儀に開いた。
頼は、使い慣れた武器以外は身につけていなかった。奴と渡り合うのに、飛び道具は要らない。刀と、この身ひとつでよい。そう考えたのだ。
エレベーターも問題なく作動した。5階で降りると、指定された区画に向けて歩いていく。
照明がついていてもなお薄暗い空間で、ひとつの高炉だけが赤々と燃えていた。おそらく自動でコークスを燃やし続けているのだろう。
頼は空間の中をぐるりと見回した。すると、遠くからこちらに向かって歩いてくる一人の男の姿があった。
「長旅、ご苦労だった」
頼は身体を声のする方に向け、太刀を握りしめる。
「なに、いきなり戦を始めるつもりはない。楽にしておけ」
しかし頼は握った右手を緩めない。
「お前は——」
「お前はだれだ、と問うつもりなのだろう」
闇の中から照明が効いている地点まで歩いてきたとき、男はその輪郭を鮮明にあらわした。
赤い目で不気味に笑っているのは、間違いなくサムライの証だった。だが、妙だった。彼は、まるで頼を鏡写しにして複製したような身なりだったからだ。甲冑や首巻に至るまで、まるごと頼と同じだった。
「驚いたか、頼?」低い声も、頼に酷似していた。「まあそうだよな、おれのことなど覚えていやしないだろう」
「どういう意味だ」
「これは覚えているはずだ。1868年、河内神順上は自ら腹を切って自裁した。そのときお前にサムライとしての、本当の力が宿った。だがそれと同時に、この世に現れたのだよ。サムライを殲滅するための『反サムライ』というべき存在がな。——分かりにくいか。こう言えばわかるだろう」
敵対者は顎を少し下げて、その赤い目を大きく見開いた。
「お前の暴走を止めるための、本来のお前だ」
「本来の、俺だと?」
「そうだ。お前はもうひとりのおれ、だ。おれの名は、河内神頼長(こうちのかみ・よりなが)だ」
「頼長……」
頼は古い記憶の中に、その名前を見いだした。抹消されそうでされなかった記憶の中に。
——そうか、かつてはそう呼ばれていた。母さんも、父さんも、河原で駆け回っていて遊んでいたとき一緒にいた友達も、みなおれのことを、頼長と言っていた。
「だんだん分かってきただろう。正統であるべきは、お前ではなく、おれなのだよ。郷に従うべきか、サムライを継続するべきか、ふたつの意志がおれの中で渦巻き、それがお前を生み出してしまったんだ。今にして思えば、おれの人生で最悪な瞬間を、おれは許諾してしまったんだ」
頼長も、拳を強く握りしめていた。
「だがな、頼、もうとっくにサムライの時代は終わったんだ。ましてやお前を利用したサーヴァント制など、サムライの道義に反すどころか、あってはならない事態だ。だから」
彼は一度唾を飲み込んで、
「サーヴァントであるお前を殺し、おれも死ぬ。それで事実を公表し、サムライをこの世から消滅させる」
そう言い、握った拳を開いて宙に向けた。
「頼長……、だがそうはさせない」
頼は鋭い眼光を頼長に向ける。
「この国は長い間、法によって悪を裁いてきた。だが、それだけでは対処のしようがない悪が、芋蔓のように日本中にはりめぐらされているんだ。おれは、上官からの命令で、誰からも称賛されることのない裁きを、悪人たちに与えてきた。この国が日本として存続するためには、絶対に、悪に対する抑止力が必要だ」
頼長は、さもおかしげに笑い立てる。
「はっはっは。ならどうする? おれを殺して生き抜くか?」
「なにがおかしい!」
「いいだろう、殺すなら殺してみろ。だが、その代償は大きいぞ。——おれは日本の主要都市に、こっそり爆弾を仕掛けて回った。おれが死ぬ瞬間、それらが全部起爆するようになっている。それで、サーヴァントは悪だという事実が、白日のもとにさらけ出されることになる。お前はもう前のように闊歩できないってわけだ」
頼は眉間に皺を刻んだ。
「それともうひとり、お前の敵がここに来てるんだ」
頼長は、彼の傍にある、黒い布が被さった「何か」を指差した。
「見たいか。見たいよな」
頼長は布をさっと引いた。すると、中から見覚えのあるものが出てきた。頼の頭に、アパートでの光景がフラッシュバックする。
——あたしが生まれるよう仕組んだ悪者を殺すことが、あたしの定めなんだよ。
あの少女だった。黒い結束バンドで手足を椅子に縛り付けられており、口には猿ぐつわのような縄を噛まされ、言葉を発せられない状態になっていた。汗と涙で髪が顔にはりついている。
頼は大きく目を見開く。
「なぜだ、なぜその子をここに連れてきた」
頼長はおかしげに笑いながら、少女の頭を優しく撫でた。
「『望まぬ命』の話をお前に聞かせれば、お前は動くだろうというおれの目論みさ。長い時間をかけて、おれは事実を捏造してきた。DNA検査の結果から母親の死、さらには母親のためにサーヴァントを殺さねばならないという宿命……。それらすべては仕組まれた事実だったんだ。お前も気にかけていたんだろう、生き残ったあの少女のことを」
「お前——とんでもないことをしやがって」
「それはこちらのセリフだな。お前は正義の名のもとに、数えきれないほど人間を殺してきた。人道に背く行為は、決して許されない」
もう、頼から容赦という概念は削げ落ちていた。太刀を引き抜く。光沢のある刀身が、宙でぎらりと輝いた。
「頼長……お前を殺す」
それを聞き届けた頼長は、一歩ずつ頼の方ににじり寄っていく。
「望むところだ」
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