◻︎礼服用の靴
「ごめんなさい!ホントにごめんなさい、私がちゃんと確認しなかったから」
ブスッと仏頂面の、礼服姿の夫、光太郎に平謝りをする。
「まいったよ、もう。いい年してさ、まさかこんなことになるなんて」
「あー、これからはちゃんと確認するから。ごめんね……」
光太郎は今日、急逝してしまった同僚のお葬式に出かけた。私は朝から仕事に出かけるために、クリーニングから戻ってきたままの礼服と香典袋と礼服用の靴を出しておいた。
「私は出かけるからね。準備はしてあるから戸締りだけ、よろしく!」
のんびり朝ごはんを食べていた夫に声をかけて、そのまま出勤した。お葬式は11時から斎場だと言っていたから、時間的には余裕がある。子どもじゃないから、大丈夫だろう。それが今朝のこと。
なのに。
仕事中に、光太郎からの電話があった。めったにないことなので、ドキリとしながら通話ボタンを押した。
「はい?どうかした?」
『あのさ、僕の黒い靴、礼服用の。どこ?』
「え?玄関に出しておいたでしょ?」
『そうじゃなくて、もう一足あったよね?』
「もう一足?」
手にしていたモップを立てかけて、思い出してみる。確かにもう一足あったけど…あれはうーんと……。
『それってさ、慎二がいつだったか、貸してって持って行ったままだと思う。どうして?』
「あー、じゃあもういい」
とても苛立ったような声で、プツッと電話は切れた。
___一体、なんのこと?
説明もなかったのでそれ以上気にも留めず、せっせと自分の仕事をこなしていった。何度か光太郎からの電話を思い出したけど、あれから何もなかったから大丈夫だったのだろう。
「ただいま!」
玄関を開けると、そこには靴が入っていたらしい紙箱と新しい靴と、私が朝用意しておいた靴が無造作に置いてあった。
「ちょっ、もう、なに?散らかしっぱなしで!」
そのままリビングに行くと、着替えもせず不貞腐れた様子の夫がいた。
「あれ、いたんだ。ね、玄関散らかったままなんだけど」
「……慌てたからね」
「え?」
「出かけようとしたら、あの靴、ダメだった」
「ええっ!?ダメってどういうこと?」
「見りゃわかる」
私は慌てて玄関に脱ぎ捨ててある夫の靴を確かめた。そんなに高級ではないけど、親戚の結婚式の時に新調したものだ。合成皮革だから、たいした手入れもしていない。今朝も箱から出して軽く埃を払っただけだった。
「何が……あっ!」
靴を持ち上げて裏を見ようとしたら、ハラリと何かが落ちた。
「ん?なんだこれ……えーっ!」
落ちたのは靴底だった。まるで漫画みたいにキレイに剥がれ落ちた。出がけにこんなトラブルがあると一気に気分が落ちるということは、私にも経験がある。
そこで冒頭の平謝りになってしまった。
「本当に、ごめんなさい」
「まいったよ、履いて歩き出そうとしたら、そうなったの、そこが抜けたみたいな。慌てたよ。でも確かもう一足あったはずだと思って電話したんだけど……慎二が持って行ってること忘れてたし。おかげでお葬式には少し遅れてしまった」
「ごめんなさい、朝出した時は気づかなくて」
出がけにこんなトラブルがあると、気分が下がるのは私もよくある。礼服用の靴なんて、普段履かないからあまり気にしていなかった。
「もういいよ。慌てたけどさ、なんとかなったし。それにさ、涼子ちゃんがよく言ってた探し物の話、実感したから」
探し物をする時間は無駄だし、探すのを諦めたらひょっこり出てきたりする。それは私自身昔から思っていることで、夫にも何回か話したことがある。
「だよね、私も探し物はイヤなんだけど、何回も繰り返すってことは進歩してないってことだよね。で、あの新しい靴、買ってきたの?」
驚いた顔をした光太郎。
「やっぱり?涼子ちゃんも忘れてるんだ!僕は思い出したもんね。だから僕の勝ち」
ピースサインを私の目の前に突き出した。
「え、何?忘れてる?」
「あれさ、半年くらい前に一緒に買い物に出た時、たまたま閉店セールやってた靴屋で買ったやつだよ、おぼえてない?」
___閉店セール……!
「あっ、思い出した。すっごく安いから一つ買っとこうって買ったやつだ。え、よく見つけたね」
「たまたま見つけたんだよ。もう一足あるはずだとゴソゴソやっててさ。靴箱の上の棚の奥にあったんだけど、最初は誰の靴かわからなくてほっといた。んで涼子ちゃんに電話して慎二が持ってってるって言ったから、急いで新しいのを買いに行こうとしたんだ。そしたらあの箱につまづいてさ。あの靴が出てきた」
どうやら、たまたま偶然、新品の靴を発見したらしい。それにしても、もう一足買ってあったことをすっかり忘れていた。
「よかった。買ってあって。ってか!すっかり忘れてる私って、なに?自分でイヤになるよ」
「僕も見るまで忘れてたよ。ずっと昔のことはおぼえてるのにさ、最近のことは思い出せなくなってるもんだね。年のせいだね」
持ち物は数が多いと把握できないと、痛感してしまう。
「ねぇ、光太郎さん」
「わかるよ、涼子ちゃん」
2人目を合わせて、ニヤリとする。
「次は靴箱整理しよう!」
「そうしよう!だいたいさ、一度に履ける靴は一足なんだよね。ムカデじゃないんだからさ。いつも履くやつとほとんど履かないやつ、仕分けして処分しちゃお」
というわけで、次は靴箱とそこに置いてある傘、スリッパを片付けることにした。買ったけれど履いてない靴や、ヒールが高すぎてもう履けない靴、履き潰してしまってる靴(なんで捨ててないんだろ?)を出してしまったら、収納棚の三分の一しか使わない。
「スッキリしたね」
「そうだね。あ、余裕ができたからここに避難グッズ置こうか?押し入れにしまったままのやつ」
「いいアイディア!何かの時にすぐに避難できるね」
30年ほど住んでる家が、少しずつ住みやすくなっていく気がして、いい気分になってきた。
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