テラーノベル
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帝辛が去ったあと、縫季は部屋に戻った。扉を閉める音が、思ったより大きい。
卓の上に小壺を置く。紫紅の液体が、静かに揺れた。
清朗の部屋から持ち出した香。甘い。けれど、舌の奥に苦さが残る。息を吸うたび、胸のどこかが薄く痺れる。
(証拠だ)
狂楽香の初期。善意の形をした刃。制度になる前の、まだ細い流入。
――そして。
(清朗が、殿下の孤独を先に救った)
それが、保存記録上の強い収束と噛み合わなかった。縫季は深く息を吐いた。吐いても、軽くならない。
報告しなければならない。管理官へ。
だが、何を。香のことだけでいい。それなら、言える。
(……俺の中身まで、言う必要はない)
口の中が乾く。乾いたまま、唇を噛んだ。
そのとき。
ふっと、空気が白くなる。灯りでも霧でもない。胸の内側へ落ちてくる『圧』だけがある。
『縫香官』
来た。
縫季は天井を睨んだ。睨んでも意味がないと分かっているのに、身体が先に反応する。
管理官が続ける。
『報告しろ』
職務上の要請は短い。いつも、逃げ道だけを塞ぐ。
縫季は息を整え、胸の奥で言葉を組んだ。
『……狂楽香を確認した』
『どこで』
管理官の声は、温度がない。
縫季は小壺を見ながら答える。
『清朗の部屋だ。本人が所持していた』
白い圧が、わずかに重くなる。肯定でも否定でもない。ただ、重さが増す。
管理官がまた問う。
『経路は』
『医官。名目は安堵。善意の形で回ってる』
沈黙。その沈黙が、妙に長い。
管理官が言った。
『……善意の経路か』
縫季は短く返す。
『ああ』
縫季は、小壺へ視線を落とした。揺れが、もう止まっている。
言うべきことは、ここまでだ。――なのに。
喉の奥に、別の言葉が引っかかっている。引っかかったまま、落ちてこない。
縫季は、息を吸った。
『……世界線の状況を、整理させてくれ』
白い圧が、静かに待つ。
縫季は卓の木簡を見ながら、言葉を並べ始めた。
『保存記録では、帝辛は孤独を抱えたまま王として立ち続ける経路への収束が強い。孤独そのものが固定点ではない。だが今、清朗がそこを先に埋め、固定点へ至る観測経路が変わり始めている』
管理官が引き取る。
『殷滅亡という固定点ではなく、そこへ至る因果の並びが書き換わりつつある』
『そうだ。清朗が「側にいる」たびに、帝辛が「一人で立っていた」という記録が薄れる。記録が薄れれば、天界は足場を見失う。足場がなければ、来るべき者が降りられない』
縫季は続けた。
『その結果、来るべき力が別の場所へ落ちた。東の方向だ。正史に記録のない小国へ』
管理官が言う。
『東境の不審な動きと一致する』
『ああ。因果が繋がってる』
縫季は一度息を吐いて、続けた。
『清朗の善意が経路。狂楽香が燃料。帝辛の孤独が削れることで、連鎖が加速する』
管理官が静かに言った。
『構造は把握した。修正の方針は』
縫季は小壺を握った。
『清朗を、帝辛から遠ざける。それが最小の修正だ』
しばらく沈黙がある。
それから管理官が言った。
『もう一つ、報告がある』
縫季の背が、わずかに固まる。
管理官は構わず続ける。
『今夜、帝辛がお前の部屋を訪ねた。お前の足取りを覚えていた。傷に手を伸ばしかけた。お前に「線を引いてくれるなら」と言った』
縫季は黙った。
管理官が言う。
『帝辛とお前の間に、正史にない線が生まれかけている』
縫季は、答えるまでに時間がかかった。
『……知ってる』
管理官が言う。
『清朗が歪の入口になったのと、同じ構造だ』
縫季の喉が詰まった。
それは、分かっていた。分かっていながら、帝辛の背中から目が離せなかった。
縫季は言った。
『……清朗は悪じゃない』『帝辛が清朗を求めているのも、本物だ』
管理官が言う。
『歪の原因であることと、悪であることは別だ』
縫季は目を閉じた。
言うべきでない言葉が、喉の奥に残っている。残ったまま、消えない。
縫季は、息を吸った。
『……清朗が羨ましい』
管理官は返事をしない。
縫季は続けた。
『側にいられることが。愛を口にできることが。帝辛の過去を知っていることが』
喉が痛い。
『俺には、ない。俺はよそ者だ。持っているのは、記録と任務と――黒さだけだ』
管理官が言った。
『それは任務の範囲外だ』
縫季は短く返す。
『……そうだな』
一拍。
『でも、言わないと整理できなかった』
管理官は返事をしない。
しばらく沈黙があった。
それから管理官が言った。
『職務でも、嫉妬でも。結果が同じなら、動機は問わない』
縫季の胸を、その言葉が貫いた。
楽になった。同時に、潰れそうになった。
許された気がした。許されたくなかった。
縫季は息を呑んだ。
『……それは、優しいのか残酷なのか』
コメント
1件
縫季の「清朗が羨ましい」って告白、めちゃくちゃ刺さりました…。任務で線を引かなきゃいけないのに、自分にはないものを全部持ってる清朗が、どうしても羨ましくて。管理官の「職務でも、嫉妬でも。結果が同じなら動機は問わない」って、優しいのか残酷なのか、本当にそうだなって思いました。よそ者だからこそ抱える孤独と、それでも帝辛から目を離せない縫季の気持ち、すごく伝わってきました🥀💔
#BL
#ヒューマンドラマ
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