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名告主による名告げは、彼女の命が絶えるまで行われる。名告主が役目から自由になる方法などない。先代の知恵を受け継いだ名告主は、先代が息絶えた瞬間から役目に縛り付けられる。それ即ち、師である先代の名告主を弔う暇もないという事。自らの手で師を殺した後悔に浸る暇もないという事。……それは果たして幸いであるのだろうか。
名告主の権限は神々とは比べ物にならないほど強いが、それは果たして名告主となったものの『これから』の価値と釣り合う物なのだろうか。
誰もが疑問に思っても、確かめるものはどこにもいなかった。
○
夏の日差しに小さな子供が目を細める。暑くて溶けてしまいそうだから、鞠遊びをするべきではないだろう、と子供は思ったようで、鞠を片付ける為に家へと駆ける。家からは誰の声もしない。
子供は鞠遊びの代わりに、歌を歌おうと思い立ち、再び外へ出た。流行りの歌を知らない、彼女が歌う歌は決まって同じだ。昔ここにいた子供がよく歌っていた歌。幼女は慣れたメロディを口ずさむ。
かごめ かごめ
かごのなかのとりは
いついつでやる
よあけのばんに
つるとかめがすべった
うしろのしょうめんだーれ
……………………………………か。
____今、何か音がしなかったか。
子供はばっと振り返った。そこには無論、何もない。誰もいない。そんな事は分かりきっている。何しろここは、彼女の聖域なのだから。
ここには、彼女が守り続けている家しかない。そう、家しか……。
あぁそうか。家か。
子供はその事実をを恐れはしなかった。五割の『嬉しい』と三割の『不安』と二割の『ワクワク』が彼女の心中を占めていた。
彼女は近くにいた鳥を呼び寄せる。文を届けるために。名を告げてもらうために。
梅雨のじめじめとした湿気をものともせずに、涼しい顔をして歩く男女がいる。今の季節、着物の厚着は暑いだろうにと彼ら、または彼女が見える人間は思った。
季節外れな格好をしているものの内の一人、雪はいつにもなく真剣な雰囲気を纏っていた。
「…………そんなに焦らずとも、今日の夕刻には着く」
片割れの様子を察した氷が、珍しく雪を落ち着けるための言葉をかける。氷の気遣いに雪は少しだけ柔らかい表情を作ってみせた。
「あぁ、ごめんなさい。あの子に何かあったのかって思ったら、居てもたってもいられなくて」
雪は手紙を取り出し、そこに書かれている文字を指でなぞる。
『至急名告げて頂きたい』
そう端的に述べられたお願いを無視するなんて雪にはできなかった。なぜなら、送り主は雪の唯一の友達だったから。昔の雪を知る、唯一の生き残りだったから。名告主の役目と同じくらい、大事なひとだったから。
名告主の仕事が落ち着いた頃にもう一度ゆっくり伺おうと思っていたのに、火急の用があると言うのだ。雪が心配しないわけがない。
対して氷は雪が大切に思っているひととは誰だろう、と考える。人間なのか、物の怪なのか。女なのか、男なのか。雪が気にいるくらいだから、人間だろうと物の怪だろうとよほど変わっているものなのだろう。
とはいえ、と氷は思う。このまま焦った状態の雪を放って置くと大惨事に繋がりそうだ。既に三度ほど、何もない所で躓いている。……ならば。
「雪。目的地はこの山を超えた所だったか?」
「ええ。それがどうかした?」
「それなら、山を迂回するよりも、山を登って超えた方が早い」
「うん。…………うん?」
「ぼくの背中に乗れ。最速で移動してやる」
雪の返事を待たずに、氷は自分より背の低い彼女を背負う。山中ならば人の目には付かない。物の怪としての本気を出しても問題はない。
氷は足に力を込めて全速力で駆け出した。
○
柔らかい日差しが降り注ぎ、日差しと同じくらい柔らかな雨が天から齎される。何だかまるで、お話の中の世界みたい、と幼い雪は思った。
ただの古い民家と、狐の嫁入りの組み合わせなだけなのに、どうしてこんなにきれいなの?
雪はその問いを胸の内に秘め、隣に立っている名告主の顔をそっと見上げた。沢山の仕事が入っていたのに、無理をしてここまで来た理由が、当時の雪には分からなかった。だから目的地に辿り着いた彼の顔を見れば、何か分かるかもと思ったのだ。
身長のせいか、名告主の顔は見えなかった。けれども彼の顔辺りから、温かい水が流れていた。
『……やはり…………もう、いないか』
『?』
師である彼の言葉の意味も、雪には何も分からなかったけれど。
『なあ、雪』
『なあに? お師様?』
『頼みがある』
彼の願いを叶えたいと思った。
だって。
『どうかおれが死んだ後に、体が残るのだとしたら……その時は』
ここに埋めてくれないかと。
自分よりも遥かに幼い子に対して縋るのだ。
それがあまりにおかしくて、なんだか胸の辺りがきゅっとなったから。
『いいよ。お師様。わたしが埋めてあげる!』
考えなしに、その誓いがどのような結果をこの雨のように齎すのかも知らないで。
雪は約束し。
彼の望みを叶える事が、できなかった。
○
氷の移動速度は凄まじく、二人は昼過ぎに目的地に辿り着いた。雪はふらふらとした足取りで氷の背から降りる。
「……わたし、今回の移動で分かった事が一つあるわ。移動って、掛かる時間も大事だけれど、質もそれなれに大事なのね」
言外に「お前の移動は質が悪い」と言われているような気がして、氷はむっとした。
「じゃあ自分で走ればよかっただろう」
「詳しく説明もせず強引に人を負ぶったものの言う事とは思えないわ」
「…………」
氷は雪の反撃に口籠る。そんな氷を見て、雪はクスクスと笑った。
「嘘よ。ごめんなさい。氷はわたしを思ってしてくれたのにね」
その表情が名告主として振る舞う彼女ではなく、彼女の本心に近い部分から出てきたものだと分からない氷ではなかった。氷はふいと横を向く。雪を気遣ったのは事実だが、それを彼女に知られるのは少し気恥ずかしい。
話題を変えようと、氷は咳払いを一つして雪に問いかける。
「ところでここが目的地なのか? 荒廃しきって何もいるように見えないが」
「多分ここのはずなんだけど……」
どうも記憶と違う、と雪は首を捻る。雪はどうやって昔ここへ来たのか忘れたようだ。氷は思わず呆れ顔になり、目を細めた。
「そうか、雪は大事なひとの居場所を忘れるのか……」
「違う。いやまぁ、違わないけど……。ここに来たのって今回が二回目で、そもそも初めて来た時わたし小さかったし…………」
視線を泳がせながら、ごにょごにょと言い訳を連ねる雪。側から聞いてとても見苦しい。名告主としての威厳も何もない、年相応の反応だ。
ささやかな復讐をし終え満足した所で、氷は意識を切り替える。ここではなくこの周辺のどこかに目的地があるとすれば、果たして名告げに間に合うのだろうか。雪にも氷にも、空を飛ぶなんて芸当はできない。広範囲の捜索には時間が掛かる。ましてや雪の大切なひとがいる場所が、もし人里の、それも物の怪が見えない人の村などにあった場合、儀式を見られればどうなる事やら。神として崇められるならまだ良いものの、邪なものとして追いかけ回されたりすれば、たまったものではない。
一人思案に明け暮れる氷の鼻に、鳥の羽が一枚落ちてきた。毛の感覚がこそばゆい。氷は羽を手に掴む。その様子を見て、あっと雪が声を上げた。
「それだわ」
「は?」
雪が鳥の羽を認識したまさにその瞬間、世界が色を変えた。……否、元の色に『戻った』。
混乱する氷をよそに、雪は興奮しながら空を見上げる。
「うん。確かこの感じよ!」
喜ぶ雪に応えるよう、この空間に声が響き渡る。
「____よく来たな。雪」
それは温かく柔らかで、澄んだ子供の声だった。
○
_______よく来たな。最後の子供よ。
幼い雪の脳内に、綺麗な声が響く。声の主はどこにもいないが、不思議と怖くはなかった。
雪は名告主の着物の裾を引っ張る。
『ねぇ、お師様。この声って何?』
『これはこの家に古くからいる、座敷童の声だ。姿を見せないのは……隠れ鬼をしているつもりなのか』
『へー。わたしが見つけてもいいの?』
彼は雪の頭を撫でた。
『……ああ。おれが探すよりも、雪が探す方が早いだろう』
『分かった!』
ただの子供の遊び。隠れ鬼。それが雪と神楽の出逢いだった。
○
「____とでも言うと思ったかばかたれ。どうしてここへの入り方まで忘れるんじゃ」
「ごめんなさい神楽。でも、ほら、もうあれから何年経ったか分からないくらい過ぎたでしょう? わたしが忘れても仕方ないと……」
「言い訳は好まぬ。そもそも、まだ十年ほどしか過ぎていないではないか!」
小さな幼女__神楽はじとっとした目で雪を見つめる。どうやら大変ご立腹らしく、雪の腹辺りをぽかぽかと殴り始めた。その小さな体躯の割に力は強いようで、時折雪の「うっ」とか「あっ」とかいう呻き声が聞こえた。
「……まぁよい。ここに早く来ようと随分無茶をしたのだろう。今日の失態は水に流してやろう」
神楽が自らの髪についていた蝶の飾りを取り外し、ふっと息を掛けると、それはまるで命を持ったかのようにひらひらと動き、雪の目の前で四散して消えた。キラキラとした雨にも似た何かが雪に降りかかる。
「なあに、これ?」
「疲労回復の術だ。半妖にはこの聖域に掛かった陣は効かぬからな。……時間を持て余すと暇が多すぎて困る」
長い時と寄り添った神楽の、暇つぶしの仕方が多種多様の『守護』に特化した術を覚える事だった。決して望んで覚えたわけではなかったのだろう。自らの術を眺める彼女の表情はどこか物憂げだ。
神楽はくるりと氷の方に向き直り、深々とお辞儀をした。
「初めまして、氷。いつもこの雪の面倒を見ているそうじゃな。礼を言う」
「……神楽。何だか言葉の節々に棘が混じっている気がするのだけれど」
「礼を言われるほどの事ではない。ただ成り行きでそうなっただけだ」
「ふふ、そうかそうか」
神楽は笑顔で頷く。座敷童のその無垢な目は、穢れが映ろうとも曇らない。揺るがない。座敷童はそのような柔な物の怪の器ではない。だからこそ、地域によっては崇められ畏怖されるのだ。
氷は雪と神楽の仲が良い理由が、少し分かったような気がした。
「それで神楽。わたしは誰に名を告げればいいの? 元気そうなところをみると、あなたではないようだし……」
「ああそうだ。神楽は神楽に名告げて欲しいわけではない」
神楽は背後に聳え立つ家を指差し、一言。
「こやつに、名を告げてやってはくれぬか」
雪は目を見開く。なぜなら、それはここ何十年間起こらなかった現象。大仕事。
「家の、物の怪化?」
「そうじゃ。そう珍しい事でもないだろう」
神楽の言う通り、物や動物の物の怪化は珍しくはない。年に何度も引き起こされる現象だ。その度に雪は現地へ赴き名を告げていたから、よく知っている。
けれど、それらは全て小さなもの達であった。家の物の怪など、だいだらぼっちに匹敵する大きさではないか。
「名を告げるのはいいのだけれど……対話はできるの?」
「できぬ。こやつはずっと喋っておらぬ。だから……その……非常に言いにくいのだが…………」
神楽は口角を不自然に上げた。この時点でもう面倒臭い予感しか感じない。
「この家の『中』に眠っているであろう、こやつの気持ちを汲み取ってくれぬか?」