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『はい、もしもし武田ですが』
応答してくれた武田コーチの声。いやいや、本当に若々しい声をしているな。まあ、それは声だけに限ったことではないのだが。
武田コーチの正確な年齢を、実のところ、俺は知らない。でも恐らく三十才後半から四十才前半といったところだろう。首や手を見ればそれくらいはさすがに分かる。
でも、水泳をやっているだけあって、若々しい見た目であるのは事実だ。鍛え抜かれた肉体が、その印象を強めている。
「あ、もしもし! 武田さん、お久し振りです! ボイストレーナーの平良です! すみません、急にお電話してしまって。今、大丈夫でしょうか?」
『うん、全然大丈夫。それにしても久し振りだねえ。どうしたの? 何かあった?』
「あ、いえ、これって失礼にあたるかもしれないのですが、武田さんから以前お話を頂いた動画製作の件についてでして。えーっと、その……その後どうなったかなーと思いまして」
『あー、その件ね。わざわざありがとう』
「こちらこそ、ありがとうございます。でも、これって催促だよなあって気にしてまして」
『あははっ! いや、実際に催促だけどね』
う……返す言葉がない。
『いやね、撮影に使いたいプールがあるんだけど、そこって大人気でさ。スイミングスクールや老人ホームなんかで、すでに予約が埋まってしまっていて』
「そ、そうなんですか……?」
これ、マズい状況なのでは? 予約が埋まっているということは、撮影ができるのはだいぶ先になるはずだ。俺の予定には間に合わないかもしれない。
「あの……大体でいいんですけど、何ヶ月後くらいになりそうですか?」
『うん。三ヶ月後くらいかな?』
それを聞いて、俺の心がこう叫んだ。
『最悪じゃねえか!!』!と。
しかし、絶対に態度には出さない。武田コーチとは仲も良くてお互いの信頼関係も築けているのだから。それに、お客さんに対して失礼は絶対に働きたくはない。いや、働いてはならない。でなければ、社会人として失格だ。
「分かりました! それであれば、また三ヶ月後にでも日程やらの詳細を決めましょう! 私がご連絡を待つ感じで大丈夫ですかね?」
『うん、そうだね。そうして頂けると助かるよ。悪いね、こっちの都合で振り回してしまって。でもさ、なんだかさっきガッカリしてなかった?』
……え? な、なんでだ? なんでそう感じたんだ? 俺はしっかりと元気な声で言葉にしたはず。もしかして、無意識的に声に出ていた……?
そして、武田コーチは話を紡ぎ続けた。
『黙るってことは図星か。さては何かしらの企みがあって電話してたな?』
やっぱりバレてる……。でも、ここまでズバズバ言い当てられているんだ。素直に、ありのままの事実を伝えよう。
「は、はい……実は――」
と、俺は今回ロサンゼルスに行くことに決まったこと、お金が足りていないこと、もしかしたら、十万円という金額なら武田コーチが即決してくれるかもしれないと思ったこと。それら全てを武田コーチに伝えた。
『はははっ!! 普通そういうこと言うかなー! この歳にもなって撮影費が足りなくて撮影ができないだって? めっちゃ失礼な男だなあ』
「す、すみません!! そんなつもりはなかったのですが……そう思われても当然ですよね」
『まあねえ。でもさ、そういう馬鹿正直なところが平良くんの魅力なんじゃないかな? 少なくとも、俺はそう思ってるよ?』
優しい言葉で返してくれた武田コーチの寛大さに、俺はよりいっそう恐縮。でもこの人、本当に大人だなあ。俺とは大違いだよ。
『ところで、平良くんはアメリカでどんなことを学びたいと思っているの?』
「話すと長くなるのですが……いや、なるべく短めに話しますね。日本人という人種は、実は世界的にみると、非常に独特な声の出し方をしている人種なんです。その独特な声の出し方が原因で、日本人の多くは、高い声が出ない。もっと言ってしまうと、歌うとすぐに苦しくなる。そんな悩みを抱きやすいのだと私は思っています」
『ふんふん、それで?』
「はい。なので、アメリカではどの様なレッスンを行っているのか、それが知りたいというのももちろんあります。でも、それ以上に、そんな自分の仮説を証明する、いいキッカケになる、または触れることができるのではないかと、そう思っているんです」
『へえー、熱いもんだねえ。すげーじゃん』
「あ、ありがとうございます」
あ、マズい。完全にモードが変わってしまった。『クソ真面目モード』に。一度このモードに入ったら、もう止まらない。
「他にも、日本人が英会話を苦手とする理由も、日本人独特の発声法にあるのだと思っています。ですが、これはあくまで仮説にすぎないんです。でも、もしもこれを証明できれば、歌の分野だけではなく、広い分野のお役に立てるのではないか、と。そう考えています」
少しの沈黙。やっぱり、またやっちゃったか? 熱くなると止まらない癖は昔からなんだ。それが原因で色々な問題が起きたりもした。直そうと努力はした。したけれど、無理だった。
でもさ、よくよく考えてみれば人間なんて誰しもがそんなもので。自分の癖だったり何だったりを自ら認めなければ、前には進めない。
そんなことを考えていたら、その沈黙を武田コーチが破ってくれた。壊してくれた。いや、違う。『元のカタチに戻してくれた』と言った方が的確だろう。
『分かった。ありがとう、話してくれて。それでさ、本当に十万円で撮影も編集もしてくれるんだよね? その気持ちは今でも変わらない?』
「は、はい。変わらないです」
『じゃあさ、こんなのどう? 先に十万円振り込むよ。それでプールの予約が取れ次第、撮影を頼む。条件としては、そうだな、こちらの都合に無理やりにでも合わせてもらおうかな? どう?』
まさかのまさかだ。こんな流れになるだなんて。奇跡以外の何ものでもない。
それに、武田コーチが言った『条件』というのは、優しさからだろう。俺に気を遣わせまいとして、ワザと言ったに違いない。
だって、武田コーチは『気遣いの人』だから。
「ありがとうございました!!」
そう感謝の言葉を述べて、俺は電話の通話終了ボタンをタップした。
電話が切れたのを確認した俺は、あまりの嬉しさからしばし呆然。そして、自分に起こったことが現実か否かと自問自答。そして理解。
これは現実だ。夢でもなんでもない。現実であり、奇跡だ。
「た、助かった……」
すっかり気の抜けた俺は、すぐさま煙草に火を着け、煙をふかす。
そして呟いた。
「こんなことなら、初めから素直に話して三十万円請求するんだったなー」
うん、まさにダメ男である。
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