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罪
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次の日から、すべてがいつも通りだった。スタジオの扉を開けると、いつものように初兎が
「おはよーないちゃん!」
と明るく手を振ってくる。
りうらがコーヒーを淹れながら
「ないくん、おはよう。今日も眠そう?」
と優しく笑う。
いむは少し離れたところで資料をめくりながら、小さく
「おはよう、ないちゃん」
と呟く。
俺は……俺は、ないこの視線を避けるようにして、ただ
「…おはよう」
とだけ言った。ないこは、いつも通りだった。「みんな、おはよう。今日もよろしく」
柔らかい笑顔を浮かべて、席に着く。
誰も、何も変わっていないように振る舞った。
リスナーにバレてはいけないから。配信中も、変わらない。
「ないこくん、今日のコーデかっこいい〜!」
「ないちゃんの声癒されるわ〜」
コメントが流れるたび、ないこは画面に向かって手を振ったり、軽く笑ったりした。
俺も、隣でいつもの調子でボケを入れて、笑いを取る。
表向きは、何も壊れていない。ただ、信頼だけが、静かに消えていた。
別れてから一ヶ月が過ぎた頃。ないこの体調が、少しずつおかしくなっていった。朝、起きるのがつらくて、スタジオに遅れる日が増えた。
顔色が悪いと言われても
「ちょっと寝不足なだけ」
と笑って誤魔化す。
でも、りうらは気づいていた。
「ないくん、最近ちゃんと寝れてる? なんか…目が疲れてるみたい」
「ん、大丈夫だよ。ありがと、りうら」
初兎も、控えめに声をかける。
「ないちゃん、なんか痩せた気がするんやけど… ご飯ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。心配すんなって」
俺は……話しかけようとするたび、ないこは穏やかに、でもきっぱりと言った。
「別に、気にしてないから」
その言葉を聞くたび、胸がちくりと痛んだ。
やり直そうと、何度も口を開きかけた。
「ないこ、俺……」
「ごめん」
ないこはいつも、同じ顔で、同じ言葉を繰り返した。
あの日の乾いた笑顔と、変わらない顔で。俺は、それ以上何も言えなくなった。付き合った日。四年前の、あの日。スタジオの帰り道、二人でコンビニに寄って、アイスを分け合った。
俺が
「俺、ないこのこと好きやわ」
と唐突に言って、ないこが赤くなって
「…俺も」
と小さく返した日。その日は、いつもと変わらない一日だった。
朝の打ち合わせ。
昼の配信。
夜の雑談。
ないこはいつも通り、皆と笑い合っていた。でも、俺は……ふと、昔のことを思い出した。ないこの部屋で、二人で映画を見ながら眠ってしまった夜。
俺が風邪を引いたとき、ないこが看病しながら
「早く治せよ、寂しいから」
と拗ねた声。
初めて手を繋いだ公園のベンチ。
「ずっと一緒にいよう」
と約束した、あの夜。全部、全部、俺が壊した。スタジオの照明が落ちて、みんなが片付けを終えた頃。
俺は、初めて涙が溢れるのを感じた。
「…俺、何やってたんやろ」
声にならない声で呟いて、袖で目を拭った。
ないこが、退勤の挨拶をして先に帰ろうとする。
俺は、慌てて後を追った。
「ないこ、待って!」
エレベーターはもう降りていて、俺は階段を駆け下りた。
外に出ると、ないこの背中が少し先に歩いている。信号の前で、ないこが立ち止まった。
青信号に変わるのを待っている。息を切らしながら近づいて、声をかけようとした。
「ないこ——!」
その瞬間。けたたましいクラクション。
急ブレーキの音。
信号無視の車が、猛スピードで突っ込んでくる。ないこの体が、宙を舞った。
「ないこッ……!」
叫びが、夜の街に響いた。ないこの体は地面に叩きつけられ、動かなくなった。
血が、アスファルトにゆっくり広がっていく。俺は、呆然と立ち尽くした。足が、動かない。周りの人が騒ぎ始める声。
誰かが
「救急車! 早く!」
と叫ぶ。
遠くから、サイレンが近づいてくる。その音が、嫌というほど頭に鳴り響いた。俺は、ただそこに立っていた。
涙が、止まらなかった。
「…ないこ」
小さく、掠れた声で呼んだ。でも、もう返事はなかった。救急車の赤い光が、顔を照らす。
その光の中で、
俺は初めて
自分の犯した罪の重さを
本当に理解した。
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