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5
湾岸諸都市が落ち、
サラディンが聖地エルガルドへ退いた今、
聖地奪還軍を阻むものは、もはや何もなかった。
港には連合軍の旗が林立し、
兵たちは勝利を疑っていない。
冬が来る前に聖地を奪還する――
その期待は、焚火を囲む兵士たちの声にも、
酒杯を打ち鳴らす騎士たちの笑いにも満ちていた。
長き遠征。
飢えと病。
果てしない行軍。
そのすべてが、ようやく報われようとしていた。
「ついに……聖地へ」
そう呟いた若い兵の声に、
周囲も力強く頷く。
誰もが、エルガルド総攻撃を疑っていなかった。
その日――
総司令官リチャードは、諸将を招集した。
巨大な天幕には、各国の旗と甲冑が並ぶ。
重臣たちは高揚を隠そうともせず、
卓上に広げられた地図を見つめていた。
エルガルド。
あと数日の距離。
誰もが、そこで始まる最後の戦いを思い描いていた。
だが――
天幕へ姿を現したリチャードは、
誰も予想しなかった言葉を口にする。
「サラディンと講和する」
空気が凍った。
ガイロが顔を上げる。
エスカミオは思わず眉をひそめた。
諸将たちは互いの顔を見合わせ、
やがてざわめきが広がっていく。
「……今、何と申された」
「聖地は目前ですぞ」
「兵たちは、この日のために血を流してきたのです」
非難にも近い声が飛ぶ。
だが、リチャードは動じなかった。
彼は静かに地図へ歩み寄ると、
指で湾岸諸都市をなぞった。
補給港。
街道。
水場。
そして最後に、エルガルドへ触れる。
「奪うことはできる」
低く、落ち着いた声だった。
「だが、守れない」
その一言で、天幕のざわめきが止まった。
リチャードは続ける。
「冬が来る。道は荒れ、兵は病み、馬は痩せる」
「我らが聖地を落としても、サラディンは周囲から包囲するだろう」
「補給を断たれれば、この遠征軍は異国の地で干上がる」
「聖地を手にした瞬間、我らは巨大な墓を抱えることになる」
「聖地は逃げぬ」
「なれど兵の命は、一度失えば戻らぬ」
誰も口を開けなかった。
勝利の先にある現実を、
初めて突きつけられたからである。
かつての彼ならば違った。
誰より早く剣を抜き、
誰より前へ出ていたはずだった。
だが今、彼の瞳に宿るのは、若き激情ではない。
王としての覚悟だった。
沈黙の中――
ただ一人、サイラスだけが小さく笑った。
「よき策です」
――若き獅子は、ついに王となろうとしていた。
講和の席は、海風の届く天幕で開かれた。
長き遠征で傷んだ旗が静かに揺れ、
卓上には両軍の印章と、羊皮紙の条約文が並べられている。
出席したのは、サラディンの弟アーディルと、
聖地奪還軍総司令官リチャード。
互いに幾度も戦場で刃を交えた男たちだった。
書記官が条文を読み上げる。
「湾岸諸都市はグラム教陣営の統治下とする」
「エルガルドはサラディンの支配を認める」
「また、グラム教信徒による聖地巡礼については」
「その安全と自由を保障する――」
天幕の中には、静かな緊張が満ちていた。
戦場ならば何万もの命を動かした男たちが、
今はわずか数行の文言で世界を決めようとしている。
その間――
リチャードは、じっとアーディルを見ていた。
アーディルは居心地悪そうに眉をひそめる。
「……何か」
リチャードは腕を組み、ふむ、と唸った。
「ところで」
「アラビア教では、妻は何人も持てるのであろう」
「……は?」
突然すぎる言葉に、
周りは全て固まった。
リチャードは気にした様子もなく続ける。
「その方、俺の妹を娶らぬか」
「つい先日、未亡人になったばかりでな」
アーディルは目を白黒させた。
「え……いや、ちょっと待ってほしい」
「なぜそうなる」
「その方、アル・スープで俺の後衛を襲った武人であろう」
「勇敢だった」
「悪くない男だと思ってな」
あまりにも真顔だった。
周囲の諸将たちまで困惑し始める。
「いや、しかし、それは……」
「そもそも宗教がちがう……」
「そうか」
リチャードはあっさり頷いた。
「では、グラム教に改宗せぬか」
「それなら問題なかろう」
(何が“それなら”なのだろう……)
アーディルは本気で頭を抱えた。
戦場では冷静沈着な将として知られる彼だったが、
今は完全に調子を崩されていた。
「うむ、気に入った」
リチャードは満足げに笑った。
結局、返答を保留したまま、
アーディルは天幕を後にした。
そして後日――
兄サラディンのもとへ赴くと、
疲れ切った顔で言った。
「兄上……あの男、少しおかしい」
アーディルは兄に
会談での出来事を説明した。
「……断ったのか」
「はい」
は苦笑しながら続けた。
沈黙。
次の瞬間だった。
「――ぶはっ」
サラディンは吹き出した。
肩を震わせ、
ついには声を上げて笑い始める。
「はははははっ!」
「そうか……!」
「私を二度も破った男が!」
「この戦の意味を、まるで理解していなかったとは!」
「なんのために戦っていたのだ」
幕僚たちは呆然と立ち尽くす。
サラディンはなおも笑い続けた。
「アル―の神もさぞ驚いておられよう」
「ははっ……腹が痛い……!」
「ああっ面白い」
「生まれて初めてだ……」
「こんなに笑ったのは……!」
やがてアーディルが静かに問う。
「……お会いになりますか」
サラディンは涙をぬぐいながら、
首を横に振った。
「いや」
「このまま、死ぬまで笑っていたい」
余談だが、この縁談話は幻に終わる
ジェーンが烈火のごとく怒り
リチャードが妹にこっぴどく叱られたからである
その半年後。
砂漠の英雄は、
静かにこの世を去った。
港には、絶え間なく怒号が飛び交っていた。
荷箱を運ぶ兵士たち。
帆を張り替える水夫たち。
遠征を終えた軍勢は、帰国の準備に追われている。
潮風には血の匂いの代わりに、ようやく平穏の気配が混じり始めていた。
その喧騒から少し離れた岸壁に、
二人の男が並んで立っていた。
赤い外套を羽織った若き王――リチャード。
そして、その隣には青い外套の軍師サイラス。
しばらく二人は何も語らなかった。
ただ波の音だけが静かに響いている。
やがてリチャードが口を開いた。
「私はな」
「勝つことがすべてだと思っていた」
その声音は、いつもの豪放さとは少し違っていた。
「勝てば名声が手に入る」
「勝てば人は従う」
「勝てばすべて好転するとな」
リチャードは遠く停泊する船団を見つめたまま続ける。
「父カルドが教会と揉め、」
「“金で王位を買った男”などと陰口を叩かれていたことも……」
「関係していたのかもしれん」
サイラスは黙って聞いていた。
リチャードは鼻で笑う。
「だから私は勝ちたかった」
「誰よりも派手に」
「誰よりも強く」
潮風が赤い外套を大きく揺らした。
「だが――」
リチャードはそこで一度言葉を切った。
「この戦いで、多くを学んだ」
聖地を巡る争い。
飢え。
死。
祈り。
敵味方を問わず、
数え切れぬほどの人間が倒れていった。
勝ってもなお、
すべてが救われるわけではない。
その現実を、
彼は嫌というほど見てきた。
だが、それでも。
リチャードはふっと笑った。
「どうだった?」
悪戯を思いついた少年のような笑みだった。
「俺は獅子心王を――」
「うまく演じられていたか?」
サイラスは一瞬、言葉を失った。
波の音が静かに響く。
やがて彼は、小さく息を吐いた。
「……わかっておられたのですね」
リチャードは肩をすくめる。
「まあな」
その返答はあまりにも軽い。
だがサイラスには分かっていた。
この男は、自ら英雄になろうとしていた。
兵が求める王を演じ、
騎士たちが夢見る獅子となり、
絶望しかけた十字軍を、一つにまとめ上げた。
それは天性だけではない。
彼自身の意思だった。
リチャードは海を見つめたまま笑う。
「英雄ってやつを」
「一度やってみたかったのさ」
夕陽が海を赤く染めていた。
その光は、若き獅子の外套を燃えるように照らしていた。
fin
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