最後の皿をフェリシアーノから受け取り、丁寧にふき取っていく。皿を洗うフェリシアーノの手はどこか緩慢で、きっとそれは自分も同じなのだろうとぼんやりと考える。
何かを先延ばしにしようとするかのように、全ての動きがのろのろと進んでいく。そして、もうこれ以上何もすることがないのを二人とも悟り、珍しい完全な沈黙が訪れる。
「じゃあ、行こうか」
フェリシアーノの心なしかいつもよりも緊張したような声を合図に、二人で家を後にして、二人とも無言のままで歩いていく。
しばらくすると、長らく避けてきた碧い海が視界いっぱいに広がった。
思わず、ため息が出るほどに美しい海で、すでに昇り切った太陽の光を受けて眩いばかりに輝いている。この海を見る度に、圧倒的な美しさと同時に、胸をかき乱されるような焦燥感が襲ってくるのは分かっていたことだった。
だが、今日はその焦燥は恐怖に近いほどに激しく、とても耐えられそうにもなかった。
早く聞け、と。聞いてしまえば楽になれると、何かが囁きかけてくるのに、口を開きかけると同時に出て来るべき言葉は下へ下へと沈んでいく。
沈んでいく言葉は徐々に熱をもって体中を巡っていき、ただ外へ出ようと暴れまわる。かつてのヴァレンティーノの日のように、その熱は体を蝕み、理性を奪っていく。
「ルート!?」
どうやら自分は膝から地面に倒れこんだらしい。のぞき込んでくるその顔が、いつかの花を渡した小さな子供の顔と重なる。
『ありがとう、神聖ローマ!』
無声映画のようだった見知らぬ記憶に、まるで昨日起きたばかりの出来事とでもいうかのように鮮やかすぎる色と音が添えられる。
ああ、聞くまでもない。やはり、この体は。
「…仕方がないな。お前を苦しめるつもりはなかったが、結果としてはそうなってしまったな。すまなかった。全部残らず持っていたと思っていた…少し休んでいろ。最期の落とし前は俺がつける」
熱くなった頭に妙に大人びた子供の声が静かに響き渡り、逸る心臓の鼓動を落ち着けていくのが分かる。その声に黙って頷きながら意識を手放した。
「ルート?ルート!?」
呼びかけても応えない自分よりも随分と大きくて硬い体を揺さぶる。すると、ゆっくりと瞳だけが徐々に開いて行った。
―――違う。瞬間的にそう思った。その色は、暗い夜の海のような、深い蒼。世界から失われた色。
「ルート?」
思い違いだったと否定してほしくて、彼の名前を呼ぶ。しかし、横たわる彼は寂しげに笑うだけだった。そして、彼が徐に口を開いていく。
「イタリア」
喪われた過去が現在に追いつくのを待つために、その言葉で世界は動きを止める。
震える唇が紡げる言葉はただ一つだけ。
「…神聖…ローマ…」
その名前に目の前に横たわる彼が身を起こしながら頷く。
「どうして…」
「…そうだな。お前たちが思うほど、この体の持ち主は子供ではなかったということだろうな」
何百年ぶりかに交わした神聖ローマの言葉は、昔と変わらず直截的ではなくて、やはり難しかった。
「どういうこと?」
「ドイツ…ルートヴィッヒは、全て気が付いていた。自分の体がかつて誰のものであったのか。そして、それを知っていて周囲の人間が自分にだけは隠していることを。そして、それを誰かに否定してほしかった」
その言葉に指先からどんどんと体が冷たくなっていく。
やっぱり、気づいてしまっていた。隠されている理由も知らされず、彼はいったいどんな気持ちだっただろうか。もし、自分が彼だったらきっと耐えられないのは分かっていたのに、なぜ隠し続けたのか。
神聖ローマの瞳にはこちらを責める色はなかったけれど、それは却って抑え続けて来た罪悪感を掻き立てた。淡々と、彼が知りうることを静かに語り続ける声に耳を傾ける。
「俺のことを知るほどにルートヴィッヒは恐ろしくなった。自分の抱いたお前への想いも全部、俺のものだったのではないかとな」
同じだ。自分が愛しているのは彼なのか、それともルートなのか、ずっとずっと分からなかった。一つだけ違うのは、分からないまま答えを出すことを拒み続けた自分と違って、ルートはどんなに恐ろしくとも、答えを知ることを選んだことだ。今日の彼の行動は全て、自分の存在と心を確かめることだったのだろう。
「やっぱりそうだったんだ。そうじゃなきゃいいって思ってたけどさ…そんなに都合がいいわけないって分かってたんだ」
神聖ローマの顔には優しい微笑が浮かんでいた。心なしか、その声も先ほどより幾分温かい。
「お前だけのせいではないさ。あいつの不安に拍車をかけたのはプロイセンだ。俺が国を失って世界から消えて、その代わりに彼が生まれたのだと分かったら、プロイセンに訪れる結末も自明のものだからな…大切なものを何もかも喪うかもしれないという不安に耐えきれなかったんだろう。お前に気づいたこと全てを話して、答えをだすつもりだったようだが…恐怖に呼応して、先に俺の記憶が完全に蘇ってしまった」
「それで、神聖ローマが、こうやって俺と話をしに帰って来たんだね」
ルートが目を覚ましたら、何を言えばいい?そして、目の前にいる神聖ローマに何を伝えればいい?
そんな渦巻く混乱を読み取ったかのように、神聖ローマが再び口を開く。
「そうだ…イタリア、少し、歩かないか?もう少しだけ話をしたい」
彼の提案に黙って頷いた。話をして、一つずつ疑問を消していくのがいい。
まずは、目の前にいる神聖ローマに聞こう。最後までその意味を知ることのできなかったあの日の言葉の意味を。
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