「無一郎、ソロソロ日ガ沈ムワ。」
外で待機していた銀子の声に顔を上げると、朱を水で流したような淡い夕焼けの色が空を染めていた。銀子の言う通り、あともう少しで約束の時間がやって来る。
そろそろ準備をしなければと立ち上がろうとした瞬間、自分の肩に注がれた痛いほどの視線に気づき、その先を追う。
『…驚いた。貴方喋るのね。』
視線の主である○○はそう言葉を落とした。
『わたくし、喋る鴉なんて初めて見たわ。』
○○はそう言うと、ぽかんと開いた口を着物の袖口で隠し、大きく見開いた青の瞳で僕の肩にちょこんととまっている銀子を見つめる。その瞳はキラキラとした好奇心に満ちていた。
「舐メテンジャナイワヨ小娘ガ!」
随分と不貞腐れた口調でフンッと顔を背ける銀子の姿を、○○は好奇の輝きを消すことなく凝視する。むしろさらに輝きを吸い取っているかのように思えた。
『…ねえ無一郎くん。この子、触ってもいいかしら?』
ガラス細工のように綺麗に澄んだ瞳に星を光らせてさらに輝かせた○○の視線が僕に向く。
その瞬間、胸がどきりと大きな音を立てて脈打った。
「…銀子がいいなら別にいいけど。」
ピクリと電気にでも触れたように唇が勝手に開き、舌が言葉を作った。
まだ心臓はドキドキと波打っているまま。またもや未知の感覚に頭を捻る。
「モシアタシの毛一本デモ抜ケタラアンタノ髪ノ毛引ッコ抜クカラ覚悟シナサイヨ。」
黒い貝殻のようなくちばしの先から不機嫌そうな声が洩れるも声の主は逃げ出そうとはしない。好きにしろということだろうか。
「こっち来て」
僕は肩に座っている銀子の背を一度だけ撫でると、○○の方へ手招きする。
その瞬間、澄み切った水晶のように青く輝く○○の目が喜びを帯びた輝かしい色を刻みながら近づいてきて、お互いの肩と肩が触れあいそうなほどの距離になる。まさかここまで近くに来るとは思わず、少しだけ胸に驚愕の気持ちが差し込んだ。体を支えるように床に置いていた指先同士がちょこんと軽く触れ、自分ではない暖かい体温が体に伝わる。
またもや胸がドキドキと喉元まで張り詰めてくるのを感じる。胸が嫌に轟いた。
『貴方、銀子ちゃんって言うのね。』
『わたくしは○○。』
そんな僕に気づかず、○○は「女の子同士、仲良くしましょう。」と強く触れれば破れてしまいそうな薄い唇の端を小さく上げ、酷く優しい声色で背を向ける銀子に告げた。
刹那、それまで不機嫌そうな黒い表情保っていた銀子の気配が、少しだけ柔らかくなったような気がした。
「無一郎くん、そろそろ行きましょう。」
「はい」
笑みに真剣さを滲ませた甘露寺さんの言葉に小さく頷く。
墨を混ぜたような重苦しい夕焼けが段々と粘りつくように闇の濃い夜の色に変わっていく。
腰のベルトに携えた刀の黒い鞘をギュッと握りしめ、鬼の気配が匂うこの村の山の方へと方向を定めた。村の住民の生活音という名の雑音が、体を包むように間断なく聞こえる。
『山の方は足場が悪いから気を付けてね。』
藤の花が縫われた着物を風に揺らめかせながら淡く微笑む○○に見送られる。
ここで○○が“鬼が出るから気を付けてね”と鬼の存在を認めてくれればこんなにも神経を研ぎ澄ます必要も無いのに。そう胸の中で小さく悪態をつきながら○○の言葉に頷いた。
「○○様…。」
そろそろ行こうかと話しがまとまった瞬間、いつの間にか傍に居たまだ若い女性が、海老のように腰を曲げて様子を伺うような用心深い表情で○○の顔を覗き込む。そのまま○○に何か耳打ちしたような素振りを見せたがここからじゃ何を話したのかまでは聞き取れない。
『…ええ、分かっているわ。』
微かに笑うように頬を動かし、○○が小さく相槌を打つ。その表情はどこか強張っていた。
もう見慣れたその複雑な笑顔に前のような濃い違和感を覚えることはなく、そのままコソコソと何かを話す女性と○○から視線を切る。突如、視界が入れ替わるようにヒラヒラと空中を黄色いイチョウの葉が目に入った。何の意味も無く暇つぶしと評してそのイチョウを踏むと、くしゃりと乾いた音をたてながら葉っぱが細かく破裂した。ボロボロに崩れたそのイチョウの葉だった欠片に、○○が毎回浮かべているあの下手くそな笑顔が重なる。
─…○○も、誰かに踏みつけられたせいであんなにグシャグシャでどこか他人と一歩引いているような、掴みどころのない笑顔を浮かべるようになったのだろうか。
ぼんやりと霞がかかった思考に、そんな根拠もない考えが貫く。
『…わたくしは少し席を外しますね。最後までお見送りできなくてごめんなさい。』
息が多めに含まれた○○の声が自身の鼓膜に触れた瞬間、ぼんやりとしていた意識がハッと覚醒する。粉々になったイチャウの葉から視線を戻すと、申し訳なさそうに眉の間に皺を寄せ、甘露寺さんと向き合っている○○の姿が映った。
その一瞬の間に記憶には重い霞が覆いかぶさり、今何を考えていたのかさえもが思い出せなくなった。チクリとした痛みが頭を悩ませる。
「私たちも出発しましょう」
「あ…はい。」
その声に無意識に沈んでいた顔を上げると、○○の姿は無かった。
そういえば先ほど席を外すとか言っていた気がする。脳裏にぼんやりと蘇った曖昧な記憶を辿りにそう思い出し、フゥっと大きく息を吸って気持ちを鬼殺に切り替える。
「…行きましょう。」
「えぇ!」
僕たちは鬼の気配が一番濃い山奥に足を踏み入れた。
森の肌を突き刺すような冷たい空気は、間近に迫った冬の到来を感じさせた。息を吸う度に霧のように染み透る冬の重い冷気が肺を満たす。自分の体に合っていないダボダボな隊服のすき間から凍てついた空気が入り込んでしまい、皮膚が少し赤らんで来た。
「…無一郎くん、居た?」
困ったような表情を頬に刻む甘露寺さんの問いかけに、僕は静かに頭を振る。
「やっぱりそうよね…、鬼の気配はするのに…。」
おかしい。
薄いにも関わらず明らかに鬼の気配は近づいてきたはずなのに、これまで一体も鬼の姿を確認できていない。柱二人がかりでも見つけられないのだなんて。
…あの少女や村の住民が言う通り、本当にこの村には鬼はいないのだろうか。
気配はするのに見つけられない。そんな曖昧さに、胃が削られるように痛む。
神経をジリジリと擦り減りすぎて、黒々と磨き上げられた冬の空が僕らを嘲笑うかのように見下ろしてくるような気さえする。自身の気持ちの余裕の無さに呆れかえってしまう。
それから何十分、何時間。時間が許す限り村全体をくまなく探したが鬼本体も、鬼が居たという痕跡も、暴れたであろう損傷も何一つ見つからなかった。
「…今日はこの辺にしましょう。夜が明けるわ。」
甘露寺さんの言葉に顔を上げると、朝が潮のように夜を追い出していく途中だった。
もう夜明け。
これで本当に捜索が終わってしまう。
一夜の疲労の大半が胃の中に溜まり、砂袋を詰めたような嫌な感じが圧し掛かって来る。
「…分かりました。」
どこか納得できない気持ちを押しつぶし、僕は素直に首を縦に振った。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!