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「ごめんくださいませ」
翌朝、岩崎と月子は丁重な男の声で目が覚める。
「……誰だ。朝っぱらから……」
岩崎が不機嫌そうに起き上がり、文机の置時計に目をやった。
「い、いかん!もう九時を過ぎているっ!つ、月子!!」
岩崎の慌てように、月子も、布団から転がるように飛び出した。
完全に寝坊した。
二人は、顔を見合せる。
「と、とにかく、誰か来たようだから、私が出る」
岩崎も月子も寝間着のままだ。男の岩崎なら、寝間着で玄関に出るのも、多少無作法ではあるが、どうにか許されるだろう。岩崎は大きく返事をしながら腰をあげた。
月子は、とにかく着替えなければと、着物に手を通した。
帯を閉め終わり、着替えができたところで、ふと、隣の襖の向こう、お咲の事が気になった。
慌て襖を開けてみると、布団だけが敷いてありもぬけの殻。
「お咲ちゃん?!」
月子は慌てたが、来客中だったことを思いだし、そっと部屋から出るとひとまず奥向きへ向かった。台所にいるのかもしれないと思いつつ足音を立てないように歩もうとしたところ、
「月子!!玄関へ来てくれないか!」
何事かと思うほど岩崎の大声がした。
呼ばれ、月子は玄関に赴くが……。
そこには西条家の面々が揃っていた。
「月子さん。この度はおめでとうございます」
家令の瀬川が、恭しく頭を下げた。
その後ろに、おもむろに顔をしかめる佐紀子。そして、若い男がつきそっている。
「あー、仮祝言のことを岩崎の本宅……吉田が連絡したと……それで、わざわざご挨拶に」
「ごてーねーに、ありがとうございます」
口ごもる岩崎の横から、お咲が元気良く答えた。
「あー、お咲が応対してくれていた……」
なるほど、先に起きたお咲が、来客だと玄関へ出向いたという訳か。部屋にいなかった理由は分かったが……。それとは別に、月子はやはり、落ち着かなかった。
佐紀子の存在が重すぎる。
「あー、その、ご挨拶もだが、佐紀子さんも祝言が決まったそうだ」
とまどいながらも、岩崎は月子へ事の次第を説明した。
「はい、つきましては、形ばかりですが結納を行いたいと思いまして、月子さんにもお知らせを。そして……執事様が、両家同時に結納を行えばどうかと言われまして……挨拶を兼ねてご相談に参ったのです」
瀬川が事の成り行きを語るが、いわば、めでたい話であるにもかかわらず、佐紀子はやはり不機嫌そうで、月子のことを睨み付けている。
「本宅が火事に会ったばかりなのに、店の重鎮達が、縁談話をまとめる始末。それも、店の職人となんて!」
佐紀子は、挑むかのように一人ごちた。
「佐紀子様。店のためにと皆で決めたことではありませんか?岩崎様の前で……」
瀬川が、佐紀子をなだめつつ、ちらりと控える男を見た。
パリッとした、いかにも新調したてという感じの着物に身を包む男は、さっと頭を下げると声をはりあげた。
「この度、西条家へ婿に入ることになりました、青山定吉と申します」
岩崎と負けず劣らずの声の大きさに、佐紀子はおもむろに不快感を表した。
「こちらは、裏方で、材木運びの職人頭をしております定吉と申します。これからは、木材の卸だけでなく、施工にも手を広げようということになり……長年仕えて来た定吉を婿に迎えることになったのです。職人相手の仕事が増えますから、やはり、それ相応の対応が取れる者の方が良いだろうということになり……」
瀬川が、西条家の事情を口重く語った。佐紀子に遠慮しているように見えた。
つまり、西条家を立て直す為に、佐紀子が握っていた実権を、店の重鎮へ移したのだ。火事で本宅は失くなり、幾分かの借金もある様子。今なら、新たな事業に手を広げ損失と信用を取り戻せると、皆は踏んだのだろう。そして、佐紀子の婿に職人頭を選び、西条家を再出発させるつもりのようだ。
もちろん、佐紀子は納得していない。定吉と出来る限り距離を置き顔も合わせようとしない。あくまでも、下働きに対する態度を貫いている。
「岩崎様、いつぞやは、お世話になりました。結納を交わすご報告兼ねて、お二人へのお祝いに……」
定吉は、賑やかに岩崎と月子を交互に見ながら言った。
たちまち、佐紀子が顔を背ける。余計なことを言うなとばかりに……。
定吉の言葉に岩崎ははっとした。
「あぁっ!もしや、火事の見舞いに行った時の!」
焼け出され、呆然としている皆に代わり、きびきびと動く職人がいた。岩崎は、見舞金をその若者に預けたのだが……あの時の……。
思い出してくれたかと、定吉は笑った。
「月子さんも仮祝言、おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
月子も、あの時の事を思い出し、縁とは不思議なものだと思ったが……。
すかさず、佐紀子が言い放つ。
「余計な事を!お前は黙って瀬川に任せておきなさい!」
ぴしゃりと佐紀子に言われても、定吉はどこ吹く風で、少し肩をすくめると瀬川を見た。
「あ、あ、あの、つきましては、形ばかりの結納に、月子さんもご参加願いたいと申しますか……。ならば、岩崎様との結納を行うのが一番ではないかと、西条の家も思った次第で……」
先走って仮祝言なとあげてしまったが、やはり、結納は行うべき物だ。その機会を、吉田が巧く瀬川経由で西条家へ打診したようだった。
つまり、佐紀子がいる。月子の立場を考え、西条家の結納に乗っかるのが一番だと踏んだようだ。
岩崎も、あくまで月子はまだ西条家の人間だから、どう、西条家へ切り出せば良いのか迷っていた。
完全に相乗り、そして、佐紀子、月子と一緒に結納を行うという一風変わった事にはなるが、吉田の判断でもあるし、ごたつきも無いような気がした。
「月子?私は、それが良いと思ったが、月子はどうだ?」
「……あ、は、はい。京介さんが良いのなら……」
「じゃあ、そうしよう」
岩崎は、月子を気遣うように優しく笑った。
「あ、では、そうゆうことで……」
瀬川が言う。
月子は、はたと気が付いた。
「京介さん!ここでは、玄関先では!」
「あっ!そうだな。月子。立ち話し過ぎたな!」
岩崎も大事な話を玄関先でまとめてしまったと、焦りつつ、佐紀子一行を居間に誘う。しかし。
「話が決まったのなら、長居は無用です。瀬川、帰ります」
佐紀子の冷たい返事が返ってきた。
さらりと言い放っているが、その表情は固く、月子への敗北感からなのか、意図していなかった格下の相手との婚姻が受け入れられないのか……、不機嫌ではなく、それを越えた、憎悪に達した目付きを岩崎と月子へ向けている。
「ああ、瀬川さん。詳しくは、本宅の吉田と……」
岩崎も、この場を切り抜けようと、早々に話を終わらせようとした。
「では、そうゆうことで……」
瀬川が申し訳なさそうに言う、その間に、佐紀子は、さっと踵を返し玄関から出て行った。
定吉が、呆れ顔を向けると、深々と頭を下げ、佐紀子の後を追う。瀬川も帰りの挨拶をすると、慌てて表へ出た。