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「……月子。大丈夫か?」


岩崎が、月子をじっと見つめてくる。


佐紀子の事を言っているのは月子も十分わかっていた。正直、色々な事を思いだし気持ちは沈みきっている。


だが、岩崎がいてくれる。そう思ったとたん、月子の体は動いていた。


「京介さん!」


月子は迷わず岩崎の胸に飛び込んでいた。


「月子……」


岩崎は、少し驚いた素振りで、それでも月子を優しく抱き止めてくれた。


「月子。急だったからね。でも、佐紀子さんも、西条家も上手く行きそうじゃないか?もう、大丈夫だ」


岩崎は、月子の頭を優しく撫でながら、あやすように語り始める。


佐紀子の祝言話がまとまり、西条の店も仕事の幅を広げる。だから、月子に災いが降りかかることはないはずだ。そして、この調子なら、西条月子として、結納と正式な祝言を挙げられる。もう佐紀子にとやかく言われることはないだろうと──。


「なあ、月子。めでたい話じゃないか?」


言われて月子も落ち着いた。


過去のこと、特に佐紀子との軋轢は、ほぼどうにもならない気がするが、少なくとも、佐紀子の邪魔立てなく、西条月子として、岩崎の元へ嫁げる。


確かに、結納、祝言となると、両家がいやでも出てくる。


庶民なら、内々でと、先に行った仮祝言ですべて終わらせる事も可能だろうが、岩崎は、男爵家の人間だ。


道筋を踏む事が重要で、そうなると西条家──、つまり、佐紀子からは逃れられない。


それが、どうやら、上手くいく。余計な心配をしなくても、よさそうな流れになっている。


岩崎の言葉に月子は笑みを浮かべていた。


嫌なことは確かにあった。でも、皆に未来がやって来たようだ。とてもめでたいものが……。


「……安心したかい?」


岩崎が、月子を覗きこんでくる。そして、額に、チュッと音を立て口付けた。


「おはようの挨拶……」


「き、京介さん!」


いきなりのことで、月子は驚き、そして俯いたが……。そこには……。


「お、お咲ちゃん?!」


じっと見つめる目が……。


月子の慌て具合に、岩崎もはっとして、思わず身を屈めるとお咲の額にも口付けた。


「せ、西洋では、挨拶はこのように、行うのだ。どうだ、分かったか?」


でまかせ半分で、岩崎はお咲に説明してやるが、


「いいよ、こんなの」


お咲は、おもむろに嫌な顔をして、袖で額を拭いた。


「お咲は、やだ。顔、洗ってくる」


心底嫌そうな顔をして、お咲は、廊下をバタバタ走って行った。


「おい、こら、袖で拭くことはなかろう!じゃなくって!廊下を走るなっ!」


全くもって、けしからんと、ぶつくさ言う岩崎の姿に、月子は、吹き出した。


お咲含めて、すっかり家族の様なやり取りになっている。


月子は、必死に可笑しさを堪えた。これ以上笑うと、今度は岩崎が機嫌を損ねるはず。


「月子、笑って良いのだぞ。無理に堪えることはない」


「え?」


胸の内を見透かされていたのかと月子が惑っていると、ポンと岩崎が月子の頭に手を置いた。


「……月子。もう、岩崎の人間になるのだよ?だから、我慢は無しだ。我慢する必要などない。ましてや、笑いを堪えるとはなんたること!いつも、笑っていなさい。笑っていたら、今までのことも忘れていく……」


「京介さん……」


うん、と言い含めるように、岩崎は頷いた。


「しかし!お咲は、いただけんなぁ!ちゃんとした躾を身に付けねばならん!」


拒否されたことに怒っているのか、廊下を走ったことに怒っているのか、どちらとも言いがたい岩崎の態度に、月子は、やはり堪えきれず噴き出した。


「いやまあ、笑うことは良いことだかなぁ。やはり、あからさまには……」


やっぱり、不機嫌になった岩崎に、月子は、堪らなくなり、声をあげて笑った。


隣では、なんだかなぁと、不満げにぶつくさ言っている岩崎がいる。


月子を叱る訳でもなく、嫌みを言うわけでもなく、飄々としながら腕組みし、月子を見ている。そんな情景に月子は思う。


これが、自身のこれからなのだと。そして、なんとなくではあるが、月子に足りなかった物が、少しずつ形になって、現れている様な気がした。

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