テラーノベル
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夜のスタジオは、昼間とはまるで別の場所のようだった。
さっきまで床を震わせていた重低音は消え、
天井のスポットライトも半分だけ落とされている。
広い空間に残るのは、わずかな残響と、踊り続けた身体から立ちのぼる熱だけ。
磨かれた床には非常灯の淡い緑が滲み、
その光が壁際まで細長い影を引き伸ばしている。
汗と機材の金属の匂いが混ざる空気は、どこか静まり返った夜の水底のように重かった。
リハーサルを終えたメンバーは順に帰り、
最後に控室へ戻った仁人は、ドアを閉めると静かに背中を預けた。
——静かだ。
耳鳴りのように、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
ソファに腰を下ろすと、クッションが深く沈み込んだ。
革張りの冷たさが火照った身体に心地いいはずなのに、胸の奥の熱は少しも引かない。
最近ずっと、誤魔化してきた。
αの視線。
わずかに近づく距離。
ふとした瞬間に濃くなる香り。
「……まだ、大丈夫」
小さく呟く。
それは確認というより、言い聞かせだった。
リーダーだから。
グループを守る立場だから。
もし自分が揺らげば、この均衡は簡単に崩れてしまう。
そう思うほど、弱さを見せることが怖かった。
けれど今日は違う。
身体の奥が、じわりと熱を帯びている。
皮膚の内側をなぞられるような感覚に、呼吸が浅くなる。
指先がわずかに震え、シャツの裾を無意識に握りしめた。
そのとき。
廊下を歩く足音が響いた。
ゆっくりと、迷いのない足取り。
ドアノブが回る音が、やけに大きく耳に刺さる。
「……探した」
低く、落ち着いた声。
振り返ると、そこに立っていたのは勇斗だった。
ステージ用の黒いTシャツのまま、汗に濡れた髪が額に張りついている。
いつもの軽い笑みはなく、代わりに真っ直ぐな視線があった。
逃がさない目。
「平気だよ。ちょっと疲れただけ」
仁人は笑ってみせる。
けれど声は、ほんのわずかに掠れていた。
勇斗は何も言わず、後ろ手にドアを閉める。
カチ、と鍵がかかる音。
それだけで、空気が濃くなる。
一歩、近づく。
ふわりと甘い香りが広がった。
いちごミルクのように柔らかく、優しい匂い。
けれどその奥には、α特有の鋭さが潜んでいる。
仁人の喉が、小さく鳴った。
「嘘つくな」
声は穏やかだ。
けれど、抗えない強さを帯びている。
勇斗はソファの背に片手をつき、仁人を囲うように身をかがめた。
距離が、近い。
吐息が頬に触れ、体温がじわりと伝わる。
「俺、わかるから」
それは自信でも、独占欲でもない。
何年も隣に立ってきた時間の重み。
笑顔の作り方も、無理をするときの癖も、
全部知っているという静かな確信。
「……リーダーとか関係ない」
勇斗の指先が、そっと仁人の手首に触れる。
そこから熱が広がる。
心臓が大きく跳ねた。
「俺の前では、弱くなれよ」
その一言で。
胸の奥に張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
ずっと強くいようとしていた。
冷静で、正しくて、頼れる存在でいようと。
でも本当は——
ただ、誰かに寄りかかりたかった。
「……そばにいて」
かすれた声。
命令でもお願いでもない、ただの本音。
勇斗の目が、やわらかく細まる。
「最初からそのつもり」
そっと額が触れ合う。
温度が混ざる。
甘い香りが重なり、世界の輪郭がゆっくりと溶けていく。
遠くで換気扇の低い音が鳴っている。
窓の外では、夜風がビルの隙間を抜けていく。
時間だけが、静かに流れていた。
——その頃。
薄暗い廊下の端。
非常灯の緑に照らされながら、柔太朗は扉をじっと見つめていた。
無表情のまま。
隣では舜太が自販機のボタンを何度も押している。
「どれにしようかなぁ」
無邪気な声が、静寂に浮かぶ。
柔太朗は小さく息を吐いた。
扉の向こうから、かすかに匂う甘い香り。
「……ふーん」
短い呟き。
まだ感情は乗っていない。
けれどその視線は確実に、何かを測っている。
今は、動かない。
けれど確実に。
ステージの上だけでは終わらない物語が、
静かに、動き出していた。
額が触れたまま、しばらく動けなかった。
仁人はそっと目を閉じる。
甘い香りが、ゆっくりと肺に満ちていく。
それだけで、身体の奥のざわめきが、波が引くように静まっていく。
不思議だった。
これまでヒートの兆しを感じるたび、
誰にも気づかれないよう距離を取ってきたのに。
今は――
離れたくないと思っている。
「……少しだけ、落ち着いた」
小さく息を吐くと、勇斗の肩から力が抜けた。
「ならいい」
短い返事。
それでも、手首を包む指先はまだ離れない。
その温度が、確かな存在を伝えてくる。
窓の外では、夜の街の光が滲んでいる。
遠くを走る車のヘッドライトが、ガラス越しに細い線を描いては消えた。
その残像が、二人の影を壁に重ねる。
近すぎる距離。
それでも、越えてはいない距離。
「……怖いんだ」
ぽつり、と零れる。
「何が」
「もし俺が崩れたら、グループが壊れたら」
リーダーという立場は、いつの間にか鎧になっていた。
それを脱ぐことは、弱さを晒すことと同義に思えて。
勇斗は一瞬だけ視線を伏せ、それから迷いなく言った。
「壊れねぇよ」
静かな断言。
「お前が弱くなるくらいで、俺たちはそんな簡単に崩れない」
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
「それに――」
わずかに低くなる声。
「俺がいる」
単純な言葉。
けれど、それ以上に強い約束はなかった。
仁人の指先が、無意識に勇斗のシャツを掴む。
ほんの少し。
それでも、確かな意思。
勇斗の瞳が揺れ、甘い香りが一段濃くなる。
理性と本能の境界が、曖昧に滲む。
「……これ以上は、やばいかも」
苦笑混じりの声。
自分の身体が正直に反応しているのが、わかってしまう。
勇斗は一瞬息を止め、それからゆっくり距離を取った。
「今日はここまでにしとく」
そこにあるのは欲ではなく、抑制。
守るための一歩後退。
それが、余計に胸を締めつける。
「ちゃんと送る」
「子ども扱いしないで」
「うるせぇ」
いつもの軽いやり取りが戻る。
張り詰めていた空気が、やわらかくほどけた。
ドアを開けると、廊下の空気はひんやりとしている。
外気の冷たさが、火照った頬を優しく冷ます。
数歩進んだ先。
自販機の前に舜太がしゃがみ込んでいた。
「え、もう終わった?」
無邪気な笑顔。
その隣で、柔太朗が静かに視線を向ける。
ほんの一瞬。
柔太朗の視線が、仁人の首元をなぞった。
微かに残る、いちごの甘い残り香。
柔太朗の瞳が、わずかに細まる。
感情は見せない。
けれど、確実に何かを察している目。
「帰るぞ」
短い声。
舜太が慌てて缶を抱え、立ち上がる。
夜の駐車場に出ると、冷たい風が吹き抜けた。
都会の空は暗く、星はほとんど見えない。
その代わり、ビルの灯りが無数の人工の星のように瞬いている。
勇斗は隣を歩きながら、何も言わない。
けれどその距離は、さっきよりほんの少しだけ近い。
触れない。
でも、離れない。
仁人は横目でその横顔を見つめる。
強くて、優しくて。
ずるいくらい、まっすぐな人。
――この人に、甘えてもいいのかもしれない。
そう思った瞬間。
胸の奥で、何かが静かに定まった。
まだ“番”ではない。
まだ、何も始まっていない。
それでも。
確実に、戻れない場所へ足を踏み入れている。
夜風の中、
甘い匂いだけが、淡く残っていた。
夜の駐車場は、昼よりもずっと広く感じられた。
アスファルトはまだわずかに熱を抱いている。
けれど吹き抜ける風は鋭く、シャツの隙間から体温を奪っていく。
靴底越しに残るぬくもりが、夜との境界を曖昧にしていた。
仁人は深く息を吸う。
冷たい空気が肺に落ちる。
それでも胸の奥で燻る熱は消えない。
隣を歩く勇斗の気配が、近い。
肩が触れそうで触れない距離。
指先が、歩幅のずれで何度もかすめる。
触れるたび、小さな火花のような感覚が走った。
「……寒くないか」
低い声が夜気に溶ける。
「平気」
答えながら、自分の声が思いのほか柔らいでいることに気づく。
強く在ろうとする力が、少しだけ緩んでいる。
後ろでは舜太が無邪気に笑っている。
その隣で、柔太朗は黙って歩いていた。
ふと、柔太朗の視線が仁人の首筋に落ちる。
そこに残る、淡い残り香。
砂糖を溶かしたような甘い気配。
柔太朗は一瞬だけ目を細める。
介入する必要があるか。
均衡が崩れる兆しか。
それを静かに測るように。
だが何も言わない。
「帰るぞ」
短い声だけを残して、歩幅を揃えた。
車に乗り込むと、ドアの閉まる音が密閉された空気を震わせる。
狭い車内に、やわらかな香気が漂う。
熟れたいちごのような甘さ。
その奥に、α特有の鋭い芯。
勇斗は前を向いたままエンジンをかける。
街灯の橙色がフロントガラスを流れ、
光と影が交互に仁人の横顔を撫でる。
「……さっき」
勇斗が低く言う。
「無理してただろ」
責めるでもなく、ただ事実を置く声音。
仁人は窓の外を見つめたまま、小さく笑う。
「バレてた?」
「当たり前だ」
即答。
迷いがない。
何年も隣に立ってきた者の確信。
赤信号で車が止まる。
静寂が落ちる。
遠くでバイクのエンジン音が鳴り、闇に溶けた。
仁人は、ゆっくり息を吐く。
頼る、という選択肢は。
閉じてきた扉を開けることに似ている。
その向こうに何があるのか、わからないまま。
「……俺さ」
声が少しだけ掠れる。
「誰かに寄りかかるの、得意じゃない」
勇斗はハンドルを握る手に、わずかに力を込めた。
指の関節が白くなる。
仁人の首元に残る甘い残り香。
それを意識してしまう自分を、押さえ込むように。
「知ってる」
低い返答。
それだけで、責めも同情もない。
信号が青に変わる。
車がゆっくり走り出す。
「だから」
勇斗の声が、わずかに低く沈む。
「頼れよ」
簡単な言葉。
けれどそれは、命令でも同情でもない。
並び立つ者の声音だった。
仁人の胸の奥で、何かが静かに決まる。
怖さは消えていない。
けれど、それ以上に。
――この人の隣なら。
そう思ってしまう。
マンションの前に車が止まる。
エンジンが切れ、世界が急に静かになる。
「着いた」
近い声。
ドアを開けると夜気が流れ込む。
冷たいはずなのに、どこか甘い。
降りる前に、仁人は少しだけ躊躇った。
「……ありがとう」
やっと絞り出した言葉。
勇斗は一瞬だけ目を細める。
「今さら」
ぶっきらぼうに言ってから、わずかに視線を逸らす。
理性が軋む。
本能は、今すぐ引き寄せろと囁く。
けれど、まだ早い。
「俺は最初から、お前の味方だ」
低く、確かに。
その一言が、胸の奥へ静かに沈む。
怖くない熱が、じわりと広がる。
仁人は車を降りる。
テールランプの赤が闇に溶けていく。
一人になった瞬間、
残り香がふわりと胸を満たす。
ただの仲間には、もう戻れない。
それでもいいと、思っている自分がいる。
部屋のドアを開ける。
暗闇が迎える。
電気をつけず、壁にもたれかかる。
静かな部屋に、自分の呼吸だけが響く。
胸の奥が、やわらかく疼く。
ヒートの波はまだ引ききっていない。
けれど今は、不安よりも。
「……頼れ、か」
小さく呟く。
夜は、まだ長い。
そして物語は――
もう、静かに動き始めている。
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