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颯斗《はやと》が卒業した仁宇《にくま》高校には、昔から恋愛に関する奇妙な噂があった。
恋愛に悩んだときに旧校舎を訪れると、悩みが解決するというものだ。
在校生だった頃の颯斗であったなら、ただの噂だろ! と一蹴しただろう。
だが今の颯斗にとっては藁にも縋るものだった。
どうしたらいいかわからない。
や、本当はわかっている。
わかっているが、誰かに背中を押してほしかった。
それが眉唾物の噂でも。
颯斗には高校生のときからつき合っていた彼女がいる。
男なら誰もが憧れるルックスに美人で、性格も良い。
ただ女性には嫌われていた。
人の彼氏を寝取るという悪癖があるからだ。
寝取られ趣味のない颯斗にとっても、男癖の悪さは忌むべきものだった。
幾度も自分だけにしてほしいと頼んだのだが、一番は颯斗だから! と涙目で訴えられてしまうと強く出られない。
実際彼女が他の男に手を出していても、颯斗への態度は全く変わらないのも切り捨てられない原因の一つ。
一人暮らしの颯斗宅へ訪れては掃除洗濯料理なんかもやってくれる。
性行為の頻度だって少なくない。
こちらから誘って断られたことはないし、あちらからも誘ってくる。
よく聞く彼氏の家で他の男と……なんて非常識な真似もしない。
高校一年生のとき、向こうから告白されて付き合いだして早五年。
高卒で就職した颯斗と大学進学した彼女。
すれ違いも多くなってきたというのに、彼女は結婚をほのめかしてくる。
二十歳で結婚したい! と言うのだ。
自分が学生であるうちに結婚したいという憧れを、幼い頃から持っていたという話だった。
過去を振り返れば幾度となく聞いていた気もする。
当時は結婚など遠い未来の話だと考えていたので、スルーしていたのだろう。
その記憶は薄い。
社会人二年目。
文芸部とパソコン部の掛け持ちで、部活をやっていたときの先輩に声をかけられての就職。
先輩の実兄が社長の会社は創業十年だが、業績は順調に上がっているし給与も高い。
高校生のときに取れるだけとっておいた資格のお蔭でもらえる、資格手当があるので、彼女一人専業主婦で養い、すぐに子供が生まれても生活に不自由しないくらいの貯蓄もあった。
けれど結婚を迷うのは、彼女が一向に人の彼氏を取るのを止めないことだ。
先日はとうとう婚約者持ちに手を出したらしい。
らしいというのは、彼女本人の口からではなく、被害者である女性から直接話を聞いたからだ。
被害者の女性は高校で同じ文芸部に所属していた人だった。
高校生のときから秀逸な文章を書く人で、今は小説家として頑張っている。
一読者として応援していたので、時々ファンメールなども送っていた。
冷静な考察がためになると返事がもらえたのは、高校時代の交友があったからだろう。
その頃からペンネームの名字は実名を使っている。
小鳥遊《たかなし》は珍しい名字なので、実名と思わない人も多くて便利だと笑っていた。
『颯斗君。いい加減捨てないと、アレ』
話があるからと呼び出されてホテルのラウンジに行けば、開口一番そう言われた。
『私の婚約者を寝取ったわよ、あいつ。結婚式の日取りも決まっているっていうのに……ぎりぎりキャンセル料がかからない辺りで暴露するとか、完全な愉快犯でしょうよ』
ふんと鼻息を荒く唾棄した小鳥遊は、くいっとカフェオレを飲み干して続けた。
『結婚が決まっていた相手だからね。慰謝料は双方に請求するよ。ねぇ颯斗君、借金の申し込みとかされてない?』
そう、彼女と別れない理由はここにもある。
誕生日や記念日には少々値の張るプレゼントを贈っているが、それ以外にはねだられないのだ。
勿論借金を申し込まれた経験は一度もなかった。
『ふーん。颯斗君が一番なのは変わらないんだね。昔からできた人だったからなぁ……今更手放せないよぉ~とか平気で言ってそう……だけどさ、アレの性根は腐ってるからね、昔から。結婚したって変わらないよ?』
小鳥遊には高校時代から今まで一貫して言われてきた。
彼女は変わらないから、寝取られ嗜好がないならとっとと捨てろ、と。
人のものばかりを狙う彼女の性格が良いとか、寝言だけにしてくれ、と。
颯斗君は大切な友人だけれど、彼女と結婚するのなら貴男とも絶縁する、と。
極めつけがこれだった。
『颯斗君も覚悟を決めているんでしょう? だって、婚約していないものね?』
そうなのだ。
指輪を贈ったこともあるが、それは婚約指輪ではなかった。
婚約指輪はこのブランドで~、結婚指輪はこのブランドに決めてるの~とネット画面を見せてきたときも、へぇ素敵だね、としか返していない。
じゃあ俺に贈らせてよ、そんな返事を待っていたとは察せられて、そのあとしばらく不機嫌になっても機嫌すら取らなかった。
『もー。じゃあこれが最後ね。残念だけれど実行しても彼女を選ぶのなら、もう私は貴男と接触しない。友人として最後のアドバイス』
深い溜め息とともに小鳥遊が詳しく教えてくれたのが、少し前に颯斗が思い出した恋愛系の噂。
通称 アネモネの審判と呼ばれたものについてだった。
きちんと事前に高校へ連絡を入れて、小鳥遊の名前を出して、訪問の約束を取りつける。
鼻で笑われるか、嫌そうに断られるかと言葉を選んで連絡をしたのだが、颯斗が在学中にも在籍していた先生は快諾してくれた。
曰くその先生もお世話になったと言うのだから驚きだ。
「お手数おかけして申し訳ありません」
「気にするな。真面目なお前がわざわざ連絡してくるんだ。散々悩んだ結果なら、できた教師は背中を押すだけだからな」
高校の完全撤収時間は二十時。
今は二十一時。
校長にも話を通してあると、その時間の訪れを許可してくれた。
なるべく人に知られたくないだろうという配慮だった。
「俺のときは十分もかからなくて驚かされたが、小鳥遊は一日出られなかったと聞いたぜ。合い鍵もあるから、ほれ、鍵は貸してやる。一時間以内に出てこれたら連絡をくれ。それ以上なら終わった時点で連絡をしてほしい」
「すみません。いろいろと御迷惑をおかけしまして……」
「構わないぜ。アネモネに助けられた仲間が増えるのは俺にとって好ましいからな」
「……先生が見つけたアネモネは……何色をしていましたか?」
「さぁな。どうしても聞きたいなら、お前の花の色を聞いてからだな」
「ははは。ですよね」
鍵を握り締めた颯斗は先生にお辞儀をしてから旧校舎のドアを開けた。
振り返れば先生は見送ってくれていたようだ。
手を振ってくれる。
心強かった。
久しぶりの旧校舎は夜ともあって静かだった。
完全に電気が消えているが月明かりのお蔭で廊下を歩くには問題ない。
「えーと……箱を探すんだっけか?」
そう、噂のアネモネは箱の中に収まっているとのこと。
箱のサイズは様々で掌サイズの物から教室の半分を占めるものまであるという。
「廊下に置かれてたとか、トイレに置かれてたとか……思い出の場所に置かれていたってーのが一番多いらしい」
旧校舎に思い出の場所……颯斗は首を傾げながら記憶を辿る。
歩みは止めなかった。
というか、自然にそこへ向かっているような気がするのだ。
颯斗は音楽室と書かれたプレートを見上げながら扉を開ける。
人気のない音楽室に音は響き渡った。
「あ、まだあるんだな。現役なのかな?」
音楽室の中央には大きなグランドピアノが置かれている。
由緒あるグランドピアノで、寄贈した人の意向により旧校舎に置かれたままなのだとか。
「懐かしいなぁ……」
埃一つついていないグランドピアノの蓋を開けて、ポーンと鍵盤を鳴らす。
高く澄んだ音だった。
ここで彼女に初めて会ったのだ。
笑顔で別れの歌を弾いていた彼女が切ないほどに印象的だった。
小鳥遊に小説のネタを希望されて、この出会いのシーンを話したら大変しょっぱい顔をされたのも思い出してしまう。
自分が別れさせた恋人たちの別れを思い出しながら弾いていた、というのが真相なのだと説明されたからだ。
だとすると満面の笑みは非人道的な意味をもってくる。
自分のせいで別れた恋人たちを心の底から嘲笑っていたのだと。
「はぁ……そう、性格が良いわけないよな。人のものばかり取るとか悪趣味がすぎる」
男友達はそれでも彼女の外見や人の彼氏を取る以外の良い所を褒めてくれたけれど。
女友達には総スカンを食らっていた。
高校時代から女友達なんて小鳥遊しか残っていない。
「婚約者を寝取るなら、既婚者だって寝取るかもしれない」
会社は然程大きくないが仲はいい。
家族ぐるみのイベントなどもある。
まだ彼女を連れて行ったことはない。
正直怖くて連れて行けない。
先輩、同僚、上司、後輩。
大切な人たちのほとんどが既婚者なのだ。
「そんなことになったら……大切な仕事や親しい人たちの大半を失ってしまう」
それはさすがに……我慢、できない。
一人静かにピアノの音を聞いていると、不意にそんな結論に達する。
「え?」
そう思った瞬間。
グランドピアノの上に箱が現れた。
観音開きタイプだったのが予想外だ。
「し、失礼しまーす」
自分に与えられた箱だと咄嗟に理解しつつも、声をかけてから箱を開ける。
中には白いアネモネのみで作られた可愛らしいブーケが入っていた。
白いアネモネの花言葉は真実。
つまり先ほど決めた彼女との別れが、正しいものだと証明しているのだろう。
「早速明日、別れ話をするか……」
ブーケからは優しい香りがする。
颯斗の覚悟を後押ししてくれる、何処までも人の心を癒やす香りだった。
箱ごとアネモネのブーケを抱えた颯斗は、晴れ晴れとした表情で音楽室を出て、旧校舎をあとにした。
時間にして三十分。
先生に連絡して、箱に入っていたブーケを見せる。
「お、白か。良かったなぁ、わかりやすくて。お前の覚悟を完全肯定するものじゃねーか。ちなみに俺もわかりやすかったんだぜ!」
先生は箱を大事そうに抱える颯斗の肩をばんばんと力強く叩き、自分の体験談を事細かに教えてくれた。
白いアネモネの花言葉 真実