テラーノベル
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夏の暑さのせいにして
ただ 所為にして
火照った心を隠してる
じっとりと纏わりつく嫌な都会の熱帯夜。アパートと呼ぶ方が良さそうな建物の三階にあるワンルーム。安物のエアコンが、大袈裟な音を鳴らして部屋を冷やしている。
シャワーを浴びて、頭がまだ濡れたままキッチンで水分を取っていると、スマホが震えて、通知を知らせた。
キッチンに置いていたスマホを手に取り、コップの残りを飲み干しながら、メッセージを確認する。
「…ん?!」
珍しい名前が通知に乗っていて、思わず声が出た。『元貴』。俺の、幼馴染だ。
『今度、◯日に地元に帰るんだけど、一緒に涼ちゃんちに集まらない?』
『もちろん、行くよ。誘ってくれてありがとう。』
俺はすぐにそう返信した。
俺の幼馴染の大森元貴は、俳優をしている。成功した、と言える部類だと思う。俺は、純粋に応援していたし、嬉しかった。
ただ、最近、週刊誌に元貴のパワハラの記事が載り、否応なしにその地位が崩されていった。俺は、その記事を全く信じていなかったし、元貴を信じていた。
だけど、今こうして連絡が来た時、俺の心の中に、確かに芽生えた気持ちが、ある。
『地位が没落したら、連絡してくるんだな。』
きっと、そうじゃないってわかってる。元貴は、芸事に必死だっただけだ。夢中だっただけだ。分かってる、分かっているのに、子ども染みた嫉みが少しでも湧いた自分に嫌気が差す。
俺は今、写真家として仕事をしているが、決して成功はしていない。むしろ、生きていくのに必死なくらいの収入しかない。元貴はあんなにも夢を確立しているのに、そう思うと自分が情け無くて、負の感情に押し潰されそうになる。勝手に比較して、勝手に落ち込む。
溜め息をこぼして元貴のメッセージを閉じた後、ふと、涼ちゃんのアカウントもついでに確認する。
アイコンの写真が、九年前に俺が撮ってあげた写真のまま、変わっていない。こういうところが、どうしようもなく、俺の心を何処かで掴んだままにするのだ。
涼ちゃん。
俺の、初恋の人。
元貴の他に、俺がカメラの道に進むきっかけになった、もう一人の人。
もちろん、芸能の道に進んだ幼馴染の元貴とどこかで繋がれるように、カメラの道に進んだというのは、本当だ。だけど、写真を撮るのが好きになったきっかけは、涼ちゃん、だった。
別に、今までずっと涼ちゃんだけを想っていた、なんて綺麗な人生じゃない。恋人と呼べる人はいたし、それなりに経験だってある。しかし、写真家というものは、根なし草みたいなところもあって、呼ばれればどこにでも行かなければならないし、長期出張なんて、ザラだ。そんな生活では、どの人も長続きはしなかった。
俺は、仕事道具のカメラを棚から出して、レンズ汚れなどが無いか、確認をする。
九年ぶりか…。また、たくさん涼ちゃんの写真を撮らせてもらおう。
久しぶりに記憶の隅から取り出した初恋の面影を優しく撫で、自然と溢れる笑みを心地よく感じながら、俺はカメラをケースに仕舞い、旅行カバンにそっと入れた。
待ちきれなくて、当日の朝、始発に飛び乗って地元へと向かった。路線バスに揺られ、涼ちゃんの家の前に着いたのは、朝の十時。流石に早すぎたか、まるで小学生が遊びに誘う時間じゃ無いか。
門の前で、どこかで時間を潰せるところはあったっけ、と悩むが、ここにそんな便利な場所がある筈も無い。
しょうがない、どこかで風景写真でも撮っておくか、と荷物を地面に置いてしゃがみ込んだ時、カラララ…と玄関の戸が開かれた。
「えっ…?」
涼ちゃんが、門の前でしゃがみ込む不審者を見るように、少し戸惑った声を出す。俺は、カバンの中で手に取ったカメラを取り出し、しゃがんだままファインダーを覗く。レンズを涼ちゃんへ向けて、不安気なその様子を一枚収めた。
「…滉斗?」
涼ちゃんが俺の名前を呼んだので、カメラを下ろしてにっこりと微笑む。
「あ…ビックリした、誰かと思ったじゃん。もー、いきなり撮らないでよ、絶対変な顔だった〜。」
「…ははっ、見てこれ。」
俺は、液晶を確認して、涼ちゃんを近くに呼ぶ。俺の横に来て小さな画面を覗く涼ちゃんは、俺とほとんど身長が変わらず、長い髪をハーフアップにしていて、フワリといい香りがした。
「…ほらぁ。変な顔。」
「なに。可愛いじゃん。」
「な…なに、言ってんの。」
少し照れた様子で、玄関へと戻って行き、竹のザルに入れた野菜を両手で持って出てきた。
「あ、悪いんだけどさ、これか、スイカか、持ってくんない?」
「ん?スイカ?」
涼ちゃんの後ろをひょいと覗くと、玄関の上がり框にスイカがひと玉置かれていた。なかなか立派なスイカだ。ぱん、と底を払った荷物をとりあえず玄関に入れて、明らかに野菜よりは重そうなそれを、俺は選んで両手で持った。
「これ、涼ちゃん作ったの?」
「まさか。農家の人がくれたの。これもね。よくくれるんだ。」
「ふーん、モテるねぇ。」
「おじいちゃんだよ?」
クスクス笑いながら家の裏に回って、井戸水を捻り出す。チョロチョロと流れる水を水受けに溜めて行き、そこに野菜やスイカを入れて冷やす。
「元貴と滉斗に食べさせてあげようと思って。こうして冷やすと、美味しんだぁ。」
へにょり、と笑う涼ちゃんを、思わずまた写真に撮る。涼ちゃんは一瞬固まり、ほっぺたを膨らませて軽く睨んできた。
「もー、またぁ…。せっかくならちゃんと撮ってよ。」
「こーいうのが良いんだって、俺プロだよ?」
「…そうだね、滉斗の写真、いつも見てるよ。この間の雑誌の写真も、すごく良かった。」
「…ありがとう。」
涼ちゃんは、いつもこうして優しい笑顔で俺を包んでくれる。この顔が見られただけでも、ここに来て良かったと、そう思えた。
まだ大した仕事も出来ていないのに、涼ちゃんは俺の全てを拾い上げて、見守ってくれていたんだ。その事実だけでも、俺は泣きそうなくらいに嬉しかった。
「さて、元貴が来るまでまだちょっと時間あるし、朝の散歩でもしますか。」
「ジジイみたいな生活してんな。てか涼ちゃんて仕事なにしてんの?」
「ん?在宅で、ウェブデザイナーとか、ウェブライターをしてるよ。」
「へえー、なんか、意外。」
「そう?」
「フルートは?」
「やってるよ、時々ね。」
「そっか。てっきり涼ちゃんその道に行くのかと思ってた。」
「ないない、嗜む程度だよ、音楽は。」
「ふーん、そっか。また聴かせてよ、フルート。」
「ええー?もうだいぶ吹いてないなぁそういえば。」
家々の間の道を歩きながら、俺たちは会話を続ける。涼ちゃんと十年ぶりに会ったというのに、その空気感は驚くほどに変わっていなかった。
歩きながら、変わらずそこにある町並みを見て、あの時と同じだな、と思った。俺がカメラを好きになった、そして涼ちゃんに初恋をした、あの帰り道。
俺と元貴が中学生になって、涼ちゃんが高校生になった夏休み。聞くところによると、涼ちゃんは中学から始めたフルートに熱中していて、吹奏楽が強い遠くの高校に進学したらしい。その学校の夏季定期公演が、隣町のホールであるらしく、涼ちゃんにチケットを渡された。
「久しぶり。これ、僕も出るんだ。もし良かったら、ちょっと遠いけど、聴きに来てよ。」
こども会の白雪姫の劇から約一年後、四月からめっきり会えなくなっていた涼ちゃんに、夏休みだからと久しぶりに家に遊びに行くと、髪が伸びてアシンメトリーになっていた。側から見れば、女の子のように見えるほど、華奢な身体をしている。
「あ、ついでにこれ、やっていこうよ。」
涼ちゃんの家の中へ通され、部屋の壁の大きな柱に近づく。そこには、さまざまな高さに黒マジックで線が引かれ、『りょうか』『もとき』『ひろと』の文字が記されている。俺たちが、何故か涼ちゃんの家に刻み込んでいる、成長記録だ。
「あー、やっぱり、滉斗また大きくなってる。これは、元貴もいつか抜かされるかもね。」
「はあ?」
「すぐ抜かしてやるよ。」
少し言い合う俺たちを、困った笑顔で見ながら、また涼ちゃんが新たに名前を書き込む。俺は、こういう時間がとても好きだった。優しくゆっくりと流れる時間が、愛おしかった。
定期公演の日。元貴と一緒にバスを乗り継いで隣町のホールへ行き、涼ちゃんの登場を待った。
パッと明かりがついて、次々とよく知る曲が演奏されていく。
途中で、これまでの厳かな雰囲気がガラッと変わり、首にレイ、手首や頭にハイビスカスなどの派手な飾りを身につけた生徒たちがノリノリで手を叩き始めた。お客さんも俺たちも、そのノリに続いて手を叩く。さっきまでのクラシックから、J-popに曲目が移ったのだ。
一旦はけていた生徒たちが、両脇からワーッと横一列に出てくる。みんな、チェック柄のフリフリな制服調のアイドル衣装のようなものに着替えて、男子も女子もスカートで踊る。
その中に、涼ちゃんもいた。今、巷で大人気の四十八人アイドルグループの曲を演奏する前で、涼ちゃんたちがそのダンスを踊っている。
隣で元貴は腹を抱えて笑っていたが、俺の眼は涼ちゃんに釘付けになっていた。
一年生の恒例の役割なのだろう、まだあどけない顔の最年少たちが、踊っている。その中でも、向日葵のような明るい笑顔で、でも顔を赤くして恥ずかしそうに、一生懸命に踊って歌う涼ちゃん。
俺の胸は、ドキドキと高鳴って、一秒たりとも目が離せない。
こんなの、こんなの…。
もう、恋じゃん。
たくさんの演目が終わり、拍手喝采の中、定期演奏会は幕を閉じた。
ホワイエに人が集まり、それぞれにプレゼントや花束を渡して、声を掛け合っている。
「…俺らも、なんか持って来れば良かったかな。」
「いや、中坊なら別になんもいらんだろ。」
しかし、なんだか場違いな気持ちになって、そろそろ帰ろうか、となった時、遠くから涼ちゃんが駆けてきた。
「ありがとう二人とも!観に来てくれたんだね!」
「うん、すごかったね、特にあのダンス。」
元貴がニヤリと言うと、涼ちゃんの顔が真っ赤になった。
「ああ〜、恥ずかしい〜!あれは、決まりなんだよ〜、伝統なの。」
「か、可愛かった!…すごく…!」
俺が、なぜか必死で涼ちゃんに伝えると、少しびっくりした顔をして、その後にっこり笑った。
「ありがとう、滉斗。ねえ二人とも、もう僕このまま直帰させてもらえるんだけど、一緒に帰らない?」
「帰る!」
「帰ろー。」
「よかった。ちょっと待っててね、荷物取ってくる。」
その後、玄関で合流して、バスを乗り継いで家路を三人で歩く。
「滉斗、それ、どうしたの?」
俺が首からかけているカメラを見て、涼ちゃんが言った。
「ああ、お父さんが持ってた古いやつだけど、よかったら持ってけって。涼ちゃんの写真撮って欲しかったんじゃない?」
「へえー。」
「で、撮ったの?」
「撮影禁止だったじゃん。」
「あそっか。」
「あ、じゃあさ。」
涼ちゃんが歩みを止めた。
「ここでいいから、ちょっと撮ってよ。せっかくだし。」
夕陽に照らされて、涼ちゃんの影が伸びている。斜めから当たる西陽で、なんだか少し儚げにも映っていた。
「…そう?じゃあ、撮るよ。」
俺は、ファインダーを覗く。レンズを捻ると、涼ちゃんの笑顔が近くなった。俺の隣には元貴が立っているのに、ファインダー越しの世界には、俺と涼ちゃんの二人きりのようで。
「…はい、チーズ。」
涼ちゃんが後ろ手に組んで、少しはにかむ。まるで、少女のような表情に、俺は心臓が高鳴っていた。これは、だめだ。俺は、かなり重症のようだ。
「撮れたー?」
「…なんかお前、顔赤くない?」
隣の元貴が、顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「涼ちゃん、コイツ顔赤い。」
「ほんと?」
「なんでもないよ…暑いだけ。」
俺は、火照った心を誤魔化すように、わざとらしく服を摘んでパタパタと空気を中に送った。そう、暑いだけだ。夏の暑さのせいで、俺の体温がおかしくなってるんだ、きっと。
その日から、俺はカメラを触るのが楽しくなった。ファインダーを覗くと、被写体と俺だけの世界になる。それは、空だったり、山だったり、花だったり…
涼ちゃん、だったり。
高校を卒業してすぐに、元貴が役者を目指して上京していった後、俺は自分の進路を決めかねていた。
もうすぐ、新しい年度が始まる。涼ちゃんは東京の大学にいるというし、元貴も東京へ行ってしまった。俺だけが、ここに取り残されている。
なんとも言えない焦りの中、突然涼ちゃんから電話がかかってきた。
かなり久しぶりの連絡だ。俺は少し落ち着くための時間を置いてから、電話に応じた。
「…もしもし? 」
『あ、滉斗?久しぶり。元貴から東京来るって連絡きてさ。びっくりしたよ、あの子役者になるんだってね。』
「…うん。」
『残念ながら、僕は今就活真っ只中だし、その後はそっちに帰るつもりだし、元貴もだいぶ忙しくなるみたいで、簡単には会えないねってなっちゃって。』
「そうなんだ。」
『…滉斗は、どうしてんのかなー、って、ちょっと気になって。』
「あー…、まだ、決めてないんだよね、なにするか。」
『…そっか。…カメラ、かなって、ちょっと思ってたんだけど。』
「カメラ?」
『うん。滉斗、写真撮る時すごく楽しそうにしてたし、僕、滉斗の写真が大好きだからさ。』
大好きだから。
涼ちゃんのその声が、心にじんわり広がっていく。
「…俺の写真、そんなにいい?」
『うん、すごく素敵だと思うよ、ホントに。それにさ、カメラやってたら、いつか元貴と一緒にお仕事出来るかもじゃない?実は僕、それが楽しみだったりする。』
涼ちゃんが、そう言うなら。
涼ちゃんが、喜ぶなら。
俺は、実に単純な思考で、自分の進路を決めたのだ。
それから一年は、地元でバイトをしながら資金を貯め、高校を卒業してから二度目の春、ようやく俺はカメラマンの卵として、東京で写真家に弟子入りすることが決まった。
今は、大学の四年間を無事に終えた涼ちゃんが、地元に戻ってきているらしい。逆にこの一年は、俺が資金を貯める為のバイト三昧で忙しすぎて、全然涼ちゃんに会えていなかった。
俺は、上京する日、久しぶりに涼ちゃんに連絡をした。すると、駅まで見送る、と一緒に来てくれたのだ。
「結局、どこに就職したの?」
「んー、どこもダメだった。いやー厳しいね、社会は。こっちでゆっくり、就職先探すつもり。」
「そうなんだ、俺たち、プー仲間だね。」
「やだなぁ、そんな仲間。」
あはは、と涼ちゃんが笑う。俺は、カメラを見て、涼ちゃんに視線を移した。
「涼ちゃん、一枚、撮らせてくれる?」
「えー、いいの?」
「うん。東京のお守りにするわ。」
「御利益あるかなぁ?」
駅の前で、また両手を後ろに組んで、あの時のようにはにかむ。大学生活で金髪になっているが、優しくて可愛い笑顔は変わらず、そこにあった。俺はファインダーを覗き、世界を二人だけのものにする。
「…ありがと。」
「こちらこそ。あ、ねえ、僕のスマホでも撮ってくれない?滉斗の写真、LINEのアイコンにしたい。」
「いいよ、貸して。」
「はい、カッコよくお願いね。」
真っ直ぐにこちらを見て、ぎこちない笑顔を作る。俺はしばらく画面を見つめていたが、ふと横に視線を送る。
「あれ、涼ちゃんあれなに?」
「え?どれ?」
俺の視線に釣られて、涼ちゃんが斜め上を見た。その瞬間に、スマホのシャッターを押す。
「え?」
「涼ちゃんはさ、そうして自然にしてるのが一番いいよ。」
「おおー、なんかプロっぽい。」
スマホを受け取り、画面を確認して、涼ちゃんが目尻を下げた。
「うわぁ、すごい良い写真〜、ありがとう。」
「どういたしまして。」
「…じゃあ、元気でね。」
「…うん。でっかくなったら、帰ってくるわ。」
「あはは、楽しみにしてる。」
俺は、勇気を出して、両手を広げる。涼ちゃんはすぐに察して、同じく両手を広げて俺を抱きしめてくれた。
「じゃあね。」
「うん、行ってらっしゃい。」
改札を抜けて、俺が構内へ入って見えなくなるまで、ずっと涼ちゃんは手を振り続けてくれた。
それから、九年。俺は東京に行っても元貴にも会わず、地元にも帰らず、ずっと写真の勉強を続けた。だんだんと現場を任されたり、海外への遠征にも連れて行って貰えるようになった。
しかし、同じ東京にいる筈の幼馴染との差は開いていく一方で、俺はどうしようもない焦りと嫉妬を抱えてしまっていた。
そして、今日、またあの日と同じ道を、同じ愛しい人と一緒に歩いている。
朝の涼しい気温から、昼に近づくにつれだんだんと熱が高まってきて、俺の中の仕舞っていたはずの気持ちも、熱に浮かされたように心の中で質量を増やしていった。
「そろそろ元貴が来る頃だね、戻ろうか。」
近くを散歩しつつ、俺はたくさん涼ちゃんの写真を撮った。このために帰ってきたのだ、涼ちゃんには有無を言わさず被写体になってもらった。
あの頃とは、体型も、髪型も、髪色も違う。だけど、昔と同じ、いやそれ以上に、可愛さと美しさを兼ね備えているように感じた。俺が、初恋フィルターを通して、涼ちゃんを見ているだけかも知れないが。
家に戻り、玄関に置いた荷物を居間に移す。カメラも一度しまって、俺は涼ちゃんが用意してくれたお茶を半分ほど飲み、トイレに行った。
外から声がして、元貴が来たんだと察する。
俺は、緊張した。元貴は、どんな様子だろうか。世間から理不尽に非難され、落ち込んだりしているのだろうか。…俺は、そんな姿を、本当は見たかったのだろうか。
いや、そんな事はない、そこまで人間堕ちちゃいない、と頭を振って、心に巣食う黒い感情をなんとか追い出そうとする。
トイレから出て、俺は努めて明るく元貴に接した。いつも通りの感じでやり取りができて、俺は心から安堵する。元貴が元気そうで、本当によかった。本当は、あんなものに、傷つけられてほしくはない。それほどに、元貴だって俺には大切な幼馴染なのだ。俺が一瞬でも抱いてしまった黒いものは、無かったように、目の前の元貴と再会を懐かしむ。
俺のカメラの話になると、涼ちゃんの写真を見せて欲しいと言ってきた。俺の撮った写真を見る元貴の顔には、少し影があるように見えたのは、気のせいだろうか。
お昼の後、三人で辺りを散策する。柿の木を見つけたり、野菜をくれたじいちゃんに挨拶をしたり。
トンネルでは涼ちゃんと木の棒で遊び、分かれ道では投げた棒に行き先を決めてもらったりした。
俺は、風景を、二人を、涼ちゃんを、元貴を、たくさん写真に収める。今の夏を、閉じ込めるように。
俺の初恋を秘めたその夏を、懐かしむように。
散策から路線バスで戻り、花火を楽しんだ後、夜ご飯を済ませた。
空はすっかり深い藍が染めて、転々と輝く星を広げている。
バスの中からうつらうつらとしていた涼ちゃんが、いよいよ眠たそうにし始めた。
「これは、夜飲みは無理だな。」
俺がそう言うと、涼ちゃんをお風呂へ行かせた。
「若井、あれ、送って。」
「ん?」
「バスの。」
「あー、はいはい。」
元貴が、バスの中で俺がスマホで撮った涼ちゃんの寝顔を要求してきた。スマホを操作しながら、俺は頭の中で考えを巡らせる。
今日、カメラ越しにずっと元貴を見てきて、俺は察した。
きっと、元貴も、涼ちゃんに恋をしている。
ファインダー越しに、幾つもの人の表情を見てきた。元貴の涼ちゃんを見つめる顔には、明らかな恋情がある。幼馴染への慕情ではなく、恋情。そして、涼ちゃんが元貴を見る時も…。
「はい、送ったよ。」
「…ふふ。ありがとう。すげー撮ってんじゃん。どんだけ。」
どんだけ、涼ちゃんのこと、好きだと思う?
元貴は、どんだけ、好き?
俺は、この一日で、すっかり涼ちゃんへの気持ちを取り戻してしまっていた。涼ちゃんの笑顔がそうさせるのか、故郷の夏がそうさせるのか。
スマホをポケットに仕舞って、ふと部屋の柱を見た。そこには、いくつかの線が、その時の身長順に引かれ、その横には名前と日付が記されている。
「あー、まだ残ってる。」
「なに?」
「ほらこれ。覚えてる?」
「おー覚えてる。ていうか俺ら、なに人んちに書いてんだよってな。 」
「ホントそれだよな。迷惑だろ。」
「ははは。」
「これ、いつやめたんだっけ。なんとなくだっけ。」
「…さあ。」
「ん?」
「あー、それ、元貴がヘソ曲げたんだよね。」
お風呂上がりに、涼ちゃんが髪を優しく手拭いで押さえながら会話に入ってきた。
「…忘れた。」
「あー、そうだそうだ、俺が元貴の身長抜かした時だ!もうやんない、とか言って嫌がったんだ、元貴が。思い出した。」
「思い出すな、んなこと。」
「どうする?今書いとく?俺まだ成長期だけど?」
「いい、俺198センチあるの知ってるから。」
「デカ。じゃあ俺ら何センチやねん。」
「2メートル。と10センチ。」
はは、と笑いつつも、欠伸をしてしまう涼ちゃん。涙目になってしまうのも、可愛らしい。縁側の物干しに、手拭いを掛けに行っている。
「涼ちゃん、もうこのまま寝たら?いろいろ用意してくれてたし、疲れたでしょ。」
俺が、眠そうな涼ちゃんを気遣って、声を掛ける。
「んー…でもせっかく二人がいるのに…。」
少し寂しそうに笑う。そんな、俺たちを惜しむような声を出して…。じわじわと嬉しさが心に広がる。
「大丈夫、明日もいるし。先に寝てきな。俺らももうちょっとしたら寝るから。」
元貴も、優しさを湛えた声で涼ちゃんを二階の寝室へと誘う。んー…と悩む仕草を見せたが、その間にも眼を擦り、やはり限界を感じたようだ。
「…じゃあ、ちょっと寝かせてもらうね、ごめんね。」
「全然。朝からありがとね。」
「おやすみ。」
涼ちゃんがひらひらと手を振って、階段を上がっていく。
「…先風呂入っちゃうか。お湯冷めちゃうし。」
「そーだな、元貴先どーぞ。」
「ん。」
二人で順番に風呂に入った後、涼ちゃんに倣って手拭いを縁側に掛ける。
俺はすぐ酒に酔うタイプなので、氷を入れたコップに麦茶を注いで、縁側の元貴のところへ持って行く。
「え?酒じゃないの?」
「ま、涼ちゃんいないし。いーじゃん。」
「…さてはお前ザルだな。」
「うるへー。」
揶揄うような笑いを浮かべて、元貴がありがと、とお茶を飲む。
「…はあ。」
元貴が、意味ありげに溜め息を吐いた。
「なに。」
俺がその内容を訊こうと顔を見ると、元貴はしまった、というような顔をして、庭に視線を移す。
「いや…別に。」
「なんだよ。」
「なんもないって。」
なんの溜め息なのか、話す気もなさそうなので、俺は、思い切って話題を突っ込んだ所へ変えてみる。
「………涼ちゃん…。」
「…ん?」
「涼ちゃん、綺麗になってたな。」
「…いや、女の子に言うセリフだろそれ。」
「いーじゃん、そう思ったんだから。」
「まあ…確かに、な。」
元貴が、軽く上を向いて、少し物思いに耽る。涼ちゃんの顔でも、思い浮かべているのだろうか。俺は、心が騒ついて仕方がなくなってきて、とうとう芯の部分に踏み込んだ。
「………………………俺さ。」
元貴が視線を俺に移す。俺は庭を見ながら、視界の端で元貴の顔を捉えるが、その表情までは分からない。切り出したものの、その先を言い淀んでいると、じっと元貴は見つめ続けてくる。まるで、全部言うまで逃さない、と言われているようだった。
俺は、観念して、言葉を吐き出す。
「…俺、涼ちゃんが、初恋なんだよね。」
少し、誤魔化した。初恋なんて、もう良い思い出だと言ってしまえない程に、今日だけでも心の中に愛しさが膨らみ続けているクセに。
二人の沈黙の中、虫の声が虚しく響く。
「………俺も。」
小さく、元貴が零す。本当に、ポロリと出たような声だった。そうか、元貴も。昔、涼ちゃんの事が好きだったのか。
でも、問題はそこじゃ無いよな?
俺は元貴に視線を送ると、同じような眼で、見つめ返してきた。
「…今は?」
俺が、ザワザワする胸の内を隠しながら、平静を装った声で訊く。元貴の瞳が一瞬揺れた。自分から足を踏み入れたクセに、元貴に先に言わせようなんて、卑怯か。俺は少し乾いた笑いを含ませて、言葉を続けた。
「俺はね、今日、久しぶりに涼ちゃんに会って、やっぱり好きだって思った。」
「…そっか…。やっぱな。」
少し目線を下に外して、元貴が薄く笑う。
「…元貴もだろ?」
元貴から目を離さず、俺は尚も畳み掛ける。
「………そうだよ。」
両手を後ろに着いて、元貴が観念したように上を向いた。
そうか、俳優として成功している元貴が、涼ちゃんを好き、か。一端の写真家の卵の俺じゃ、全く歯が立たないな。俺は元貴と対照的に、下を向く。
「…涼ちゃんは、元貴を好きだと思うけどね。」
「………は?」
「だって、芸能人だし、成功してるし、涼ちゃんの眼も、好きだって言ってた。」
「成功して『た』ね。今は没落貴族だよ。」
そう言った元貴の腕には、高そうな時計がきらりと光っていた。あの強がりな元貴が、俺にも少し弱さを見せている。幼馴染としての信頼を感じて、ちょっと嬉しくもあった。
「…わかってくれる人はちゃんといるよ。」
「涼ちゃんも、わかってくれてた。」
「当たり前だろ。」
「…どっちなんだろ、涼ちゃん。」
いろんな意味が含まれていそうなその言葉に、俺は何も応えられなかった。カラン、と氷が鳴る。それを皮切りに、元貴が悪戯な笑顔を向けてきた。
「…直接、訊いてみる?」
「…え、なにを…。」
「涼ちゃんに。俺らのどっちが好き?って。」
「…おお…マジか…。」
「いーじゃん。夏の賭けだよ、どっちか成功、どっちも玉砕、どう?」
「…これ酒入ってる?」
俺はつい、麦茶のコップを手に取って匂いを嗅ぐ。正直、これから幼馴染の部屋に泊まらせてもらうのに、同時に告白するなんて、正気の沙汰とは思えない。
「入ってない。若井どーする?もう、俺は決めたけど。」
俺の返事を待たずに、元貴がすっくと立ち上がった。
「え、マジか、ちょっと待っ」
「俺、今もうなんも無いんだよね。…だから、涼ちゃんまで失うわけにはいかないんだよ。」
そう言って、まっすぐ前を向き空を見つめる元貴の眼に、俺はゾクリとした。そうか、とっくに、正気じゃないんだな。
俺も立ち上がり、元貴の薄らとした狂気に巻き込まれることにした。
「…ダメだったら、野宿だな。」
「…はは。」
俺の言葉に軽く笑って、元貴が奥へと歩いて行く。横並びに階段を上り、涼ちゃんの部屋の前に立つ。
他の部屋の窓が開けられているので、そこから室外機の音がうるさい程聞こえた。
元貴が、ゆっくりと、小さく三回ノックをする。
返事は、無い。
俺たちは、ゆっくりと、ノブに手を掛け、そのパンドラの箱を開けた。
そこにあるのは、希望か、絶望か。
コメント
35件
あ、ほんとにもう夏の影のMVとか、MV撮影中の感じなんだ。いいねぇ、仲が良くでワイワイしてて笑って。私もそんな青春してみたいです⚡︎
ローソン行って来ましたよ〜✨ 6時から行って来ました✨ 二人とも現実の自分にちょっと満足できてなくて、初恋相手に縋ってるんですね💛 ああもう最高です…。 涼ちゃんのこと好きって、いうのは確かなんだろうけど…。 この後がどうなるのか、とっても楽しみです。(関係無いけど、私半年間ずーっとお名前書かないようにしてたんだけど、もう面倒臭くなってしまいました…💦)
いやぁ、、💙さんの人間性めっちゃ好きです!!友達と好きな人が被ってしまった時の心情がリアルで情景描写が想像できました✨夏の影の歌詞もちょくちょく入ってて嬉しいです🫶 素敵な作品なのでもっと自信持って!!笑 ほんとに主様の作品1日の楽しみにしてもらってます🥰