テラーノベル
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すち視点
視界が、揺れる。
景色が動いているのに、
体の感覚が、遅れてついてくる。
足が地面についているのかも、
引きずられているのかも、
もう、よく分からない。
ただ――
引き戻されたという感覚だけが、はっきりあった。
(……やっぱり)
頭の奥で、
小さい声がする。
(……戻るんだ)
みことの家の匂いが、
まだ鼻に残っている。
洗剤の匂い。
布団の匂い。
あたたかい、部屋の匂い。
それが、
急に遠くなる。
(……あそこは)
(……夢、だったのか)
胸が、ぎゅっと縮む。
苦しい、というより、
失われた感覚。
安心が消えた感覚。
声を出そうとしても、
喉が動かない。
頭の中だけが、うるさい。
「戻るな」
「信じるな」
「期待するな」
全部、
過去の声。
すべてが、自分を責めてくる
でも、その中に、
一つだけ違う声が混じる。
(……行かせない)
(……壊れたら、一緒に直す)
みことの声。
それを思い出した瞬間、
胸が、痛くなる。
(……だめだ)
(……思い出すと、苦しくなる)
なのに、
消せない。
指先の感覚。
頭をなでられたときの、
あの、軽い圧。
(……なんで)
(……あれが、基準になっちゃうんだよ)
今の現実が、
一気に、色を失う。
暗い、とかじゃない。
無音に近い。
感情が、
引っ込んでいく。
守るための反応。
考えない。
感じない。
期待しない。
(……戻っただけ)
(……いつもの場所に)
自分に言い聞かせる。
そうしないと、
壊れる。
でも――
胸の奥で、
小さな何かが、
ずっと、抵抗している。
(……違う)
(……あそこは、違った)
(……あれは、違った)
それが、
一番つらい。
知らなければよかった、という感覚。
安心を知ってしまった後の、
現実の冷たさ。
(……知らなければ)
(……戻っても、こんなに苦しくなかった)
呼吸が、浅くなる。
体は、動いているのに、
意識だけが、遅れている。
(……みこと)
名前だけが、
頭の中で反復する。
助けて、じゃない。
呼びたい、でもない。
ただ、
存在として浮かぶ。
(……あそこに、戻りたい)
それが、
願いになった瞬間。
すちは、
自分が初めて、
「帰りたい場所」を持ってしまった
ことに気づいた。
それが、
怖かった。
(……場所があるってことは)
(……失うってことだ)
また、失う。
また、奪われる。
また、戻される。
それでも――
心の奥で、
消えないものが残る。
あの部屋。
あの声。
あの距離。
あの静けさ。
(……俺)
(……あそこに、いてよかった)
それだけは、
消せなかった。
だから、
苦しい。
だから、
壊れそうになる。
でも同時に――
(……生きてたい、って)
(……初めて、思った)
理由は、分からない。
言葉にもならない。
でも、
それだけが真実だった。
世界は、冷たいまま。
現実は、変わらない。
でも――
すちの中に、
戻れる場所の記憶だけが、
残った。
それが、
希望なのか、
呪いなのか。
まだ、分からない。
でも確かに、
“帰りたい”と思った心が、
そこにあった。
それだけで、
もう、前とは違ってしまった。
朝は、音から始まった。
カーテンの隙間を抜ける光と、遠くの車の音。
それだけで、すちは一瞬、体を強張らせた。
(……あ)
すぐに、思い出す。
ここは、みことの家だ。
天井の色。
昨日の夜、数えた小さな染み。
隣の布団にいる、気配。
「……っ」
息が、少しだけ楽になる。
それでも、体は完全には戻らない。
夢の続きを、まだ引きずっている。
――呼ばれた気がした。
名前を、低い声で。
すちは、布団を握りしめる。
(もう、ない)
そう言い聞かせるのに、時間がかかる。
「起きてる?」
みことの声は、静かだった。
扉の向こうじゃない。
すぐそばから聞こえる。
「……うん」
声が、少し掠れる。
みことは、無理に近づかない。
ただ、同じ高さに座る。
「夢?」
すちは、少し迷ってから、頷いた。
「……まだ、残ってる」
「そっか」
それ以上、踏み込まない。
でも、離れもしない。
その距離が、すちには救いだった。
しばらく、無言。
みことが、そっと言う。
「触っても、いい?」
確認。
それだけで、胸がきゅっとなる。
すちは、頷く代わりに、小さく「……うん」と言った。
次の瞬間、
頭に、あたたかさ。
撫でる、というより、
そこに手が置かれているだけ。
ゆっくり、一定のリズム。
すちは、目を閉じた。
(……逃げなくて、いい)
そう思えるまで、
何度も、呼吸を繰り返す。
「……へんな感じ」
思わず、零れた。
「なにが?」
「……うれしいのに、こわい」
みことの手が、一瞬だけ止まる。
「やめる?」
すちは、慌てて首を振った。
「ちがう」
言葉を探す。
「……なくなるのが、こわい」
撫でられる感覚。
安心している、自分。
それが、また奪われる気がして。
みことは、少し考えてから言った。
「なくならない、とは言えない」
正直だった。
すちは、胸がざわつく。
「でも」
みことの手が、また動き出す。
「なくなる前に、言っていい」
「……え」
「怖い、とか。離れたくない、とか」
淡々とした声。
「それ、言われるの、嫌じゃない」
すちは、喉が詰まった。
(……言って、いいんだ)
今まで、
言う前に、終わっていた。
「……じゃあ」
小さく、震えながら。
「……いま、離れたくない」
みことは、答えなかった。
ただ、撫でる手が、少しだけ力を増した。
それで、十分だった。
午前中。
二人で、何もしない時間を過ごす。
テレビはつけない。
会話も、少ない。
でも、沈黙は、重くない。
すちは、ソファの端に座りながら、思う。
(……ここに、いてもいい)
まだ、「必要だ」とは言えない。
でも、「邪魔じゃない」とは、思えた。
それは、大きな変化だった。
昼。
みことが、簡単なものを作る。
「無理なら、残して」
「……うん」
すちは、一口ずつ、確かめるように食べた。
喉を通る感覚。
体が、ちゃんと受け取っている感じ。
(……生きてる)
そんな言葉が、浮かんで、少し驚く。
午後。
インターホンが鳴った。
その音だけで、すちは、反射的に立ち上がりそうになる。
心臓が、跳ねる。
「出なくていい」
みことは、すぐに言った。
「俺が行く」
それだけで、すちは、動けなくなった。
(……守られてる)
そう感じた自分に、戸惑う。
みことが戻ってくるまで、
時間が、やけに長く感じた。
「もう、大丈夫」
その一言で、
体から、力が抜けた。
夜。
電気を消す前。
すちは、ぽつりと聞いた。
「……みことは、疲れない?」
「ん?」
「……俺と、一緒にいて」
みことは、少し考えてから答える。
「疲れる日も、ある」
正直。
「でも」
布団を敷きながら。
「選んでる」
すちは、目を見開いた。
「……えらんで?」
「うん」
当たり前みたいに。
「一緒にいるって、決めてる」
それは、
鎖じゃなかった。
命令でも、義務でもない。
選択。
すちは、胸の奥が、静かに熱くなるのを感じた。
「……そっか」
その夜。
すちは、初めて、
眠りに落ちる前に思った。
(……また、朝がきても、いいかもしれない)
それは、
小さな希望だった。
でも、確かに、そこにあった。
その日は、特別なことは何もなかった。
夕方、カーテン越しにオレンジ色の光が差して、
部屋の中に長い影を落とす。
すちは、床に座ったまま、
ぼんやりと自分の指先を見つめていた。
(……今日も、怒鳴られなかった)
それだけで、胸の奥がざわつく。
安心していいのか分からない。
でも、緊張し続けるのも、もう疲れていた。
「すち」
みことの声が、キッチンの方から聞こえる。
「夜、どうする?」
一瞬、意味が分からなかった。
「……どう、って」
「このまま、ここにいる?」
その問いは、軽い口調だったけど、
すちには、とても重く感じた。
ここに、いる。
“今日だけ”じゃなくて。
“帰る場所”として。
喉が鳴る。
(……決めて、いいのか)
頭の中で、昔の声がまた動き出す。
――どうせ、迷惑になる
――そのうち、捨てられる
――期待するな
でも。
今、みことは、
答えを急かしていない。
すちは、ぎゅっと拳を握った。
「……いたい」
声は、小さかったけれど。
「ここに……いさせて、ほしい」
一拍、間が空いた。
そして。
「うん」
みことは、当たり前みたいに言った。
「じゃあ、そうしよ」
それだけ。
拍子抜けするほど、簡単な返事。
でも、すちの胸の奥で、
なにかが、静かにほどけた。
夜。
布団は、二つ並べて敷かれていた。
近すぎず、遠すぎない距離。
電気を消しても、すちはすぐに眠れなかった。
天井の影が、ゆっくり揺れる。
(……本当に、ここで寝るんだ)
逃げ場じゃない。
“選んだ場所”。
それが、少し怖い。
ごそ、と布団が動く音。
みことが、体を横にした気配。
「……眠れない?」
小さな声。
「……うん」
正直に答えると、
布団越しに、手が伸びてきた。
すちの頭に、そっと触れる。
一瞬、体が強張る。
でも、その手は、
力を入れない。
ただ、なでるだけ。
髪を梳くみたいに、ゆっくり。
(……あ)
呼吸が、少しずつ整っていく。
(……怒られない)
(……叩かれない)
当たり前のはずなのに、
それが、こんなに安心するなんて。
「……やめる?」
みことが、遠慮がちに聞く。
すちは、首を振った。
「……いい」
声が、かすれる。
「……すき」
その言葉に、
自分で驚いた。
意味を、ちゃんと分かっていないのに。
でも、今の気持ちには、一番近かった。
みことの手が、一瞬止まる。
それから、少しだけ、優しくなでた。
「……そっか」
それ以上、何も言わない。
でも、否定もしない。
すちは、布団の端を握りしめた。
(……ここにいていい)
(……触れても、嫌がられない)
胸の奥が、じんわり熱くなる。
涙が出そうで、
でも、泣く理由が分からなくて。
「……みこと」
「ん?」
「……ありがとう」
しばらく、返事はなかった。
その代わり、
頭をなでる手が、もう一度、動いた。
「おやすみ」
低くて、穏やかな声。
「……おやすみ」
すちは、目を閉じた。
今日は。
ひとりじゃない夜。
必要とされる。
――その一つが、
ここになった瞬間だった。
朝は、思ったよりも静かに始まった。
目を覚ましたとき、
すちは一瞬、どこにいるのか分からなかった。
見慣れない天井。
でも、嫌な感じはしない。
(……あ)
昨日のことを、ゆっくり思い出す。
ここにいると決めたこと。
布団の隣。
なでられた感覚。
胸の奥が、少しあたたかくなる。
台所から、音がする。
フライパンが触れる音。
換気扇の低い音。
(……生活音だ)
その事実に、なぜか安心する。
起き上がると、
足音に気づいたみことが、振り返った。
「起きた?」
「……うん」
「顔、洗ってきな。ごはん、もうすぐ」
“命令”じゃない。
“頼み”でもない。
ただの、共有。
すちは、洗面所で水を顔にかけながら、
鏡を見た。
(……ちゃんと、立ってる)
倒れていない。
怒鳴られていない。
朝が、壊れていない。
それだけで、少し不思議な気持ちになる。
朝ごはんは、簡単なものだった。
卵。
トースト。
コップの水。
豪華じゃない。
でも、
「これでいい」って顔で出されると、
それだけで、胸が詰まる。
「……食べられそう?」
「……うん」
一口食べて、
すちは、目を伏せた。
(……作らなくて、いいんだ)
(……命令されてない)
「……おいしい?」
みことが、何気なく聞く。
すちは、少し考えてから答えた。
「……あったかい」
みことは、笑わなかった。
でも、
その言葉を、ちゃんと受け取った顔をした。
昼。
特別な予定は、ない。
今日は、休む日。
それが、許されている。
すちは、ソファに座って、
膝を抱えていた。
(……何もしなくていい時間)
何かをしないと、
価値がなくなる気がしていた。
でも今は、
何もしていない自分を、
誰も責めない。
「すち」
「……?」
「そこ、寒くない?」
毛布が、肩にかけられる。
その動作が、あまりに自然で、
すちは、少し遅れて反応した。
「……なんで」
「ん?」
「……なんで、そんなこと」
みことは、少し考えてから言った。
「必要だから」
胸が、きゅっと鳴る。
(……必要)
その言葉が、
すちの中で、まだ引っかかる。
「……俺」
声が、低くなる。
「……何も、してない」
みことは、すぐには答えなかった。
でも、否定もしない。
「してないね」
一瞬、息が止まる。
でも、そのあと。
「でも、いる」
それだけ。
「いることが、必要」
すちは、言葉を失った。
(……存在、だけで)
(……いいのか)
答えは、まだ出ない。
でも。
その日は、
毛布に包まれたまま、
みことのいる部屋で、
静かに時間が過ぎていった。
夜。
電気を消す前。
すちは、ぽつりと聞いた。
「……ひつようと、されるって」
「うん」
「……なに、なんだと思う?」
みことは、少し間を置いてから答えた。
「一緒にいて、いいって思われること」
すちは、目を閉じた。
(……まだ、わからない)
でも。
今日一日を思い出す。
起こされて。
ごはんを食べて。
毛布をかけられて。
同じ空間にいて。
(……いらない、って言われなかった)
それだけで、
世界は、少しだけやわらかい。
問いは、まだ終わらない。
でも――
答えに向かって、歩いている感覚は、あった。
人は何のために必要とされるのか
本当に必要なのか。
それを知るための、
静かな日常が、始まっていた。
夜は、思ったより早く静かになった。
部屋の明かりを落とすと、
窓の外の音だけが、うっすら残る。
すちは、布団に入って、
しばらく天井を見ていたけれど、
いつの間にか、眠っていた。
呼吸が、規則的になる。
それを、みことは少し離れた場所から見ていた。
(……寝た、よな)
足音を立てないように近づく。
すちの顔は、
起きているときより、ずっと幼く見えた。
眉間のしわがなくて、
唇も、力が抜けている。
「……」
みことは、無意識に息を吐いた。
「……かわいいなぁ」
小さく、独り言。
それから、
そっと、すちの頭に手を伸ばす。
なでる、というより、
確認するみたいな動き。
(……ここに、いる)
その事実を、
自分にも言い聞かせるみたいに。
指先が、髪をゆっくり撫でる。
すると。
「……ん」
すちが、小さく声を出した。
みことは、びくっとして手を止める。
(……起きた?)
でも、目は開かない。
寝言みたいに、
すちの眉が少しだけ動く。
「……やめ、ないで」
かすれた声。
みことの心臓が、
一瞬、跳ねた。
(……起きてるのか?)
「……すち?」
呼びかけると、
すちは、ゆっくり目を開けた。
「……なに、してんの」
半分寝ぼけた声。
「……起きてたの?」
「……ちょっと」
沈黙。
みことは、手を引っ込めようとして、
止めた。
「……嫌だった?」
すちは、一瞬考えてから、
小さく首を振る。
「……嫌、じゃない」
でも、少しだけ、不満そうに続ける。
「……寝てると思ってたでしょ」
「……うん」
正直に答えると、
すちは、布団の中でもぞもぞ動いた。
「……ずるい」
「何が」
「……俺が、知らないとこで」
言葉が、途中で切れる。
みことは、意味を察して、
少しだけ困った顔をした。
「……ごめん」
「……別に」
すちは、そっぽを向く。
でも、声は、拗ねていた。
(……けんか、だな)
みことは、少し考えてから、
もう一度、そっと手を伸ばした。
「……起きてるなら、いい?」
今度は、確認。
すちは、少し間を置いてから、
小さく頷いた。
なでられる感覚が、
はっきり伝わる。
すちは、
それを拒まなかった。
「……さ」
すちが、ぽつりと言う。
「……必要ってさ」
「うん」
「……寝てるときも、起きてるときも」
少し、言いづらそうに続ける。
「……変わらないの?」
みことは、即答しなかった。
でも、手は止めない。
「変わらない」
落ち着いた声。
「寝てても、起きてても」
「……いるってだけで」
すちは、布団の中で、
ぎゅっと指を握った。
(……まだ、全部はわからない)
でも。
(……少なくとも)
(……ここでは、消えない)
「……じゃあ」
すちは、少しだけ勇気を出して言った。
「……起きてるときも、して」
みことは、一瞬、目を見開いてから、
小さく笑った。
「……了解」
その夜。
すちは、
安心して眠った。
ちょっとだけ、拗ねて。
ちょっとだけ、甘えて。
問いは、まだ続いている。
でも、
必要とされる形が、
少しずつ、日常の中に溶け始めていた。
はぁ…はぁ…がんばってかいたで!(約7100文字)
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みんな、こんな時間に出したら見ないよね...