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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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予約の名義は、「柏木様 ご夫妻」だった。
「鷹宮の名前では、フロントが固まる。私の名前なら、どこにでもある」
東京駅の新幹線のホームで、柏木室長は表情ひとつ変えずにそう説明した。室長本人は東京に残る。名義だけ貸して、手配は全部済ませてあった。
「部屋はツインです。ベッドは二台。間に、テーブルが一つございます」
「……ありがとうございます」
「社長に、何かあれば、すぐにご連絡を」
その「何か」が何を指すのか、室長は最後まで言わなかった。
*
鷹宮リゾート伊豆は、海沿いの崖の上に建つ、白い大きなホテルだった。
土曜の夕方。チェックインの時間なのに、ロビーには私たちのほかに、老夫婦が一組いるだけだった。
社長は、紺のニットにグレーのジャケットを羽織っていた。髪は下ろしている。それだけで、四十三階の人とは別人に見える。
私は、まどかが「これ着てけ」と押しつけてきた、薄いベージュのワンピース。カーディガンだけは、いつものグレーを持ってきた。
「柏木様、ご夫妻でいらっしゃいますね」
フロントの女性が、にこやかに確認する。
社長は、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「予約のとおりだ」
一本の線。
夫婦だとも、そうでないとも言っていない。この人は、こういう言い方をするのだと、私は初めて気づいた。
フロントの端末の画面が、ちらりと見えた。今夜の客室状況。百二十室、すべて満室の赤。
*
部屋は、六階の海側だった。
窓の外に、夕暮れの相模灘が広がっている。ベッドが二台。間に、本当にテーブルが一つ。
「窓側を使え。私は扉側だ」
社長は、ボストンバッグを扉に近いベッドの上に置いた。
「どうしてですか」
「扉から入ってくるものは、私が先に見る」
それが冗談なのかどうか、私には判断がつかなかった。輪郭は、一本の線のままだった。
社長は荷物を置くなり、窓際に立って駐車場を見下ろした。
「数えろ」
私も隣に立った。
崖の下の駐車場に、白い線で区切られた枠が、ざっと百五十。そこに停まっている車は。
「……七台、です」
「土曜の夜、満室のホテルに、車が七台」
「電車で来るお客さんも、いると思いますが」
「駅からここまで、タクシーで二十分だ。送迎バスは、一日四本。さっきの便に乗っていたのは、私たちと、あの老夫婦だけだった」
夕食の大広間も、静かだった。
二百席はありそうな広間に、埋まっているのは十席ほど。仲居さんが、空いたテーブルの間を、足音を殺して行き来している。
社長は、お造りに箸をつけずに、広間の入口に張り出された今夜の宴会の予定表を見ていた。予定は、何も書かれていなかった。
「食べないんですか」
「仕事の前には、生ものは食べない」
「もう、仕事なんですね」
「最初から仕事だ」
社長は、自分のお造りの皿を、黙って私のほうへ押した。
*
夜九時。
私は一人で、館内を歩いた。社長と並んで歩くと目立ちすぎる。一人なら、地味な宿泊客にしか見えない。こういうとき、私の顔は便利だ。
五階の廊下で、清掃用のワゴンを押す女性とすれ違った。六十前後、腰に手ぬぐいを下げている。
「遅くまで、お疲れさまです」
「あら、ありがとうございます」
「今夜は、忙しいですか」
女性は、ワゴンの取っ手を握り直して笑った。
「ええ、満室ですから」
言い終えた瞬間、彼女の目尻は、まったく動かなかった。口だけが笑いの形をして、すぐに廊下の先へ逸れた。
――ぶれた。
嘘だ。けれど、この人が悪いわけではない。言うように言われているだけだ、と顔に書いてある。
ワゴンの持ち手に、クリップで一枚の紙が挟まっていた。今夜の清掃の指示表。
部屋番号の横に、「清掃済」「清掃要」の欄が並んでいる。そのいくつかに、赤いゴム印で「清掃不要」。
私は、ワゴンの陰で靴紐を結び直すふりをした。
清掃不要の部屋は、十二室あった。
五〇二、五〇四、五〇七、五一一、五一五。六〇三、六〇八、六一〇。紙の下のほうまで、まだ続いている。
そして、その十二室すべての宿泊者名の欄に、同じ名前が手書きで入っていた。
『坂井様(鷹宮リゾート総務部)』
社員の名前で、十二室。
一人の人間が、十二の部屋に同時に泊まることはできない。
五〇七の前を通るとき、私は扉の下の隙間を見た。廊下の明かりだけが差し込んで、中は真っ暗だった。
音も、匂いも、人の気配もない。満室の赤い表示の中で、その部屋だけが、ずっと夜のまま止まっている気がした。
*
部屋に戻って社長に報告すると、彼は窓際の椅子で、黙って私のメモを見た。
「十二室」
「はい。五階と六階に分散しています。廊下の端の、目立たない部屋ばかりです」
「坂井という社員は、実在するか」
「わかりません。ただ、清掃の方は、満室だと言わされているように見えました」
社長は、メモを二つに折った。
「明日、確かめる。今夜はもう寝ろ」
寝ろ、と言われても、眠れなかった。
間にテーブルが一つあるだけの距離に、氷の社長が寝ている。寝息は聞こえない。起きているのか、眠っているのか、それもわからない。
日付が変わるころ、私はそっとベランダに出た。
海風が冷たい。五月に入ったばかりの伊豆の夜は、東京よりずっと暗かった。灯台の光が、遠くの岬で一定の間隔で回っている。
隣の窓が開く音がした。
同じ部屋の、もう一つの窓から、社長がベランダに出てきた。
「……起きていたんですか」
「君が起きていた」
答えになっていない。けれど、一本の線だった。
しばらく、二人で黙って海を見ていた。
波の音だけが、規則正しく足元まで届く。
「一つ、聞いてもいいですか」
「三十秒で済ませろ」
「社長は、どうして人を信じないんですか」
社長は、すぐには答えなかった。
灯台の光が、一度回って、彼の横顔を白く撫でていった。
「信じた結果、人が一人死んだことがある」
私は、彼の顔を見ていた。三秒、四秒、五秒。
輪郭は、一本の線のままだった。
ぶれない。
本当のことだ。この人は、誰かを信じて、誰かを失ったのだ。
人が死ぬ、という言葉に、私はなぜか、父の葬儀の日の線香の匂いを思い出していた。白い菊。大人たちの、二重にぶれた顔。
「それ以上は、聞くな」
「……はい」
風が強くなった。
カーディガンの前を合わせると、肩に重さがかかった。
社長が、自分のジャケットを、私の肩にかけていた。
「冷える」
「社長が、寒くなります」
「私は寒くない」
一本の線、だったと思う。暗くて、よく見えなかった。
ジャケットには、まだ体温が残っていた。かすかに、紙とインクの匂いがした。
*
翌朝、八時。
チェックアウトのために、二人でロビーへ降りた。
エレベーターの扉が開いた瞬間、社長の足が止まった。
ロビーの真ん中、フロントの前に、スーツ姿の男が立っていた。
きちんと整えた口ひげ。日焼けした頬。
鷹宮リゾートの、大河内社長だった。
彼は満面の笑みで、両手を広げて近づいてきた。
「社長、ようこそ伊豆へ。いらしてくださるなら、ひと言おっしゃっていただければよかったのに」
大河内社長の目が、社長の隣の私に移る。ワンピース姿の、眼鏡の女。
「……お連れの方は、奥様で?」
コメント
1件
満室なのに車が7台、清掃不要の部屋に社員名義の連泊……不気味な伏線が散りばめられててゾクゾクした!ベランダで「信じた結果、人が一人死んだ」って言う社長の輪郭が、ずっと一本の線なのが切ない。最後の大河内登場で一気に空気変わったな…続き気になりすぎる😭