テラーノベル
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視界が歪み、世界が音を失ったようだったが
俺はなんとか正気を取り戻して
交尾に夢中で未だ夫である俺の存在に気づいていないちひろに向けて声を出した。
「ちひろ…っ!」
震える声で彼女の名前を呼ぶと、ちひろは顔面蒼白と言った感じで顔を上げた。
そこには、先ほどまでの欲に満ちた女の顔ではなく、罪を咎められた子供のような表情があった。
「……や、やだ……つばさ……いつ帰ってきたの……?!」
ちひろは、慌てて毛布で裸を隠したが、その行動はあまりにも遅すぎた。
俺の影はそれほど薄いのか、怒りを通し越して絶望していた。
「て、ていうかまだ仕事のはずじゃ…これから病院行くんじゃなかったの…?」
「……昨日、深夜に電話してたろ。あれ、全部聞こえてたんだよ…だから仕事休んで今病院から帰ってきたとこなんだ。そしたらコレだもんな…」
その言葉を聞いたちひろは観念したように
どこか面倒くさそうに大きなため息をついた。
そして彼女は突然声を荒らげた。
「だってこんなチャンスめったに無いんだよ?!」
「チャンス…?」
「テオ様のカメラマンなんて玉の輿もいいとこだし、テオ様と話したかった、繋がりたかった!だからつばさを利用しただけ!なんか悪いの?!」
開き直る彼女の言葉に、俺の中で何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
「…っ、そうやってずっと、俺のこと騙してたんだ」
「そうでもしなきゃ、私みたいな凡人がテオ様に近づけるはずないじゃない。そのために翼みたいな冴えない男と居たんだよ?そりゃ切り替えたくもなるでしょ」
ちひろは、そう言って俺を睨みつけた。
それに続けるように隣の男がちひろの腰をグイッと引き寄せてバックハグすると
俺の方を見ながら
「彼氏には同情すっけど、ま、彼氏くんは捨てられたってだけだよ」
なんてクスッと笑ってきやがった。
「なんで、俺じゃなくてそんなホストっぽい男なんだよ!ちひろ」
「ぷっ、別にいいでしょ?イケメンだし、お金持ちだし、セックスも上手いし」
「……っ」
その一言がトドメだった。
ちひろはそう言ってゲラゲラと笑うと、男はちひろを抱き寄せて慰めるように言った。
「そんぐらいにしとけって……今の彼氏くんにはちょっと刺激が強すぎるみたいだぜ?」
そう言うと、男は見せつけるようにちひろの唇を塞いだ。
そのまま舌を絡ませ合い、ぴちゃぴちゃという音が俺の鼓膜を嬲る。
俺は、その生々しい光景から目を逸らした。
もうこれ以上、この狂った空間に居たくないと思った。
こんな人間と同じ空気を吸うことすらおぞましいとすら思った。
俺は、そんなちひろを呆然と見つめながら言葉を失っていた。
(なんだよそれ……)
そんな理由で、俺はずっと騙されていたのか?
俺の愛した人間は、俺を愛してすらいなかった。
その事実があまりにもショックで、ただその場からこいつらを追い払いたい一進だった。
「…もう、出てけよ。気持ち悪い……っ」
俺が、絞り出すようにそう言うと、ちひろは急に笑い出した。
「あっははは!何ムキになってるの?出てくの、翼の方だよ?」
「は?」
「だって、子の家買うとき、私の名義で買ったじゃん?つまりこの家の所有権は私にあるの」
「そ、それはちひろが私の名義にしたいって言うから…」
「当たり前じゃん、なにかあったときに私が追い出されないためにそう言ったんだもん」
「ま、まさか…そのときからこうなること見越してたのか……っ?!」
「そーだよ?なんで女の私が住むとこ奪われなきゃいけないのって話だしw」
「な……っ」
あまりに自己中心的すぎる理由に俺は言葉を失った。
そして、そんな俺に追い打ちをかけるように、ちひろはとんでもないことを言い出した。
「だからさっさと出て行ってくんない?早く続きシたいしそこ突っ立ってられると邪魔なんだけど」
そんなちひろの言葉に、俺の思考回路は完全に停止した。
「…もういい。今すぐ出ていく」
「あ、荷物とかまとめる時間ぐらいは上げてもいいけどー?」
「…これ以上お前らなんかと同じ空間に居たくない、俺のものは適当に捨ててくれ」
そう言って俺は身を翻した。
「あっそ」と、冷たい声が俺を刺すが
俺はもう何も考えないようにするしかなかった。
俺は財布といつも愛用しているカメラ
パソコンとスマホ
その他諸々の日用品だけを鞄に詰め込んで 最愛の彼女だった人の顔を一瞥もせずに玄関へと向かった。
───……
マンションを出てすぐタクシーを拾い、近くのネットカフェに駆け込んだ。
はぁ、とため息をついたのは今日何度目だろうか。
いや、正直数えてもいなかったけど。
とにかく今は何も考えたくない……
そう思いながら俺はネットカフェの個室で独り項垂れていた。
もう日は沈んでいて、スマホ画面に表示された時間を見ると18時を回っていた。
せっかく仕事を休んでまで行った病院だったが
診断結果は後天性オメガだったし
ちひろが浮気してて
しかも相手はホスト風イケメン
計画性のある不倫をされたせいで住むとこも簡単に失って
残ったのは仕事と金だけ。
いや、家を失っただけでもまだ不幸中の幸いか。
それでも今のメンタルで訴えるだとか慰謝料請求だとかを考える気力は無くて
「俺、バカだな」
そう呟いて自嘲気味に笑った。
ちひろに騙されて、捨てられて
家を失って、仕事と金だけ残って……
俺は今まで何をやってきたんだろう。
俺の人生ってなんだったんだろう。
そんな虚無感だけが俺の中で渦巻いてた。
「はぁ」と再び大きなため息をついてから
俺は自分のスマホ画面を見た。
そこには、ちひろとイルミを見たときのツーショットが映っていて
俺はその画面をそっと閉じた。
「ちひろ……っ」
そう呟いて、彼女の名前を呟いた瞬間
俺の目からは涙がこぼれ落ちた。
「うっ、うぅ……」
今まで堪えていた感情が一気に溢れてきたようで、俺は声を殺して泣いた。
なんでだよ、どうしてあんな酷いことができるんだよ。
そんな思いが頭の中を駆け巡って、俺はただ泣くことしかできなかった。
もうあの日々は戻ってこないのだと悟ると胸が苦しくて仕方がなかった。
「……っ」
でももう終わったんだ。
何もかもが手遅れだ。
俺は、涙を袖で拭うと深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとした。
(いつまでもこうしてはいられない)
俺はちひろのことを一刻も早く忘れるべく
写真フォルダにあったちひろとのツーショット写真を全て削除した。
これで少しは気持ちが楽になると思ったが
それでもまだ俺の中でちひろの存在だけは消えずにくすぶっていた。
俺はそれを振り払うようにPCを起動させると
気晴らしにテオのブログをチェックし始めた。
テオの顔を見ると、やっぱりその美しさに心が踊る。
同時に、テオに近づくために利用された
それは分かっていても、自分がテオを恨むような人間じゃなくて良かったと安堵する。
テオは彼女と出会う前から親しくしてきた仕事相手であり
親友だ
そんな相手を恨むなんて、俺にはできなかった。
そうしてその日は適当に時間を潰してネットカフェで1泊することにした。
翌朝、見慣れない天井。
慣れない匂い。
身体が冷えていた。
昨夜、ネットカフェで借りた毛布の端は足元でぐしゃぐしゃに丸まっている。
俺は、しばらく目を閉じたまま呼吸だけしていた。
胸の奥が、ずっと重たい。
(ここにいるってことは、現実か……夢だったら、よかったのに)
思わず声が漏れる。
けど、もうスマホのロック画面
ホーム画面を初期に変えている時点で、夢じゃないって自分でも分かってる。
財布の中身を確認する。
残高──3万と、ちょっと。
これで何日食いつなげるか。
着替えてもない、風呂にも入ってないし歯も磨いていない。
スマホの充電は残り22%。
それでも、ちひろの連絡先は、もう消してあった。
「とりあえず、会社向かわないと……」
独り言を呟いて、俺は部屋を出る。
ちょっとネットカフェから離れた所にあるコンビニでおにぎりとパン
それとコーヒーを購入してから
タクシーを拾って、なるべく高くつかないように会社の近くで下ろしてもらった。
「あ、先輩!おはようございます!」
会社に着くと、後輩が笑顔で挨拶してきた。
俺はそれに、ぎこちない笑顔を返すと
丁度廊下でテオと鉢合わせた。
「あっ、テオ。おはようございます」
そう言って俺が会釈をすると
テオは俺の顔をじっと見たまま一歩、近づいてきた。
ただの挨拶じゃない、空気が違う。
その鋭くも落ち着いた視線に、思わず背筋が伸びた。
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