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いや、もう大好きだわ...
夜の帳が下りる頃、俺たちは浴衣姿で大浴場へと向かった。
旅館の長い廊下は静まり返り、木の床がギシギシと微かに軋む音だけが響いている。
窓の外には満天の星空が広がり、星明かりが足元を淡く照らしていた。
「この時間帯だと人も少ないかもな」
尊さんが低い声で呟く。
確かに遠くから響く家族連れの賑やかな声も遠のき、静謐な空気が漂っている。
脱衣場に到着すると、予想通りほとんど人はいないようだった。
俺は慣れない手つきで帯を解きながら、隣で素早く浴衣を脱ぐ尊さんの後ろ姿を目で追ってしまう。
(尊さんの背中…逞しい)
鍛えられた背筋が月明かりに浮かび上がり、まるで彫刻のような陰影を描いている。
思わず見惚れていると、視線を感じたのか尊さんがこちらを振り返った。
「なんかついてるか?」
「あっ、いえ!なにも!」
慌てて視線を逸らすが、耳まで熱くなっている自覚はある。
尊さんは小さく笑いながらもそれ以上追求することはなく、「ほら、行くぞ」と浴場の扉を開けた。
浴室に入ると檜の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
大きな湯船から立ち上る湯気の中を進み、まずは身体を流すためにシャワーを浴びる。
隣に立つ尊さんの存在を感じながら、泡立つスポンジを身体に滑らせる。
(ふぅ……気持ちいい)
しかし心臓の鼓動は収まらない。
少し離れた場所で同じように身体を洗う尊さんを盗み見る。
水滴が濡れた髪を伝い、首筋から鎖骨へと流れ落ちていくさまに目が離せなくなる。
(ダメダメ、集中できない……)
深呼吸して気持ちを切り替えようと試みた矢先、
「恋」
不意に呼ばれ肩が跳ね上がる。
「は、はい?!」
「さっきからどうした、意識しすぎじゃないか?」
「え、えっと…」
バレていた。
恥ずかしさで顔を伏せる俺を見て尊さんはまた小さく笑い「そんなに顔赤くすることないだろ」
「あぅ…すみません…っ」
「謝ることもないがな。先入ってるぞ」
そう言い残して湯船へ向かう尊さんの背中を見送りながら俺は赤くなった頬を手で冷やすしかなかった。
◆◇◆◇
身体を洗い終え恐る恐る湯船に入ると、既に尊さんが縁に腰掛け気持ち良さそうに目を閉じていた。
水面に浮かぶ湯気越しにその横顔を見つめていると、
「恋、こっちこい」
突然投げかけられた言葉にドキッとする。
「えっ」
示されたのは尊さんの隣ではなく、尊さんの両足の間で、スッポリと収まりそうな空間がある。
湯船の底を踏みながら近寄ると、「そのまま座れ」と促される。
躊躇いながらも言われた通りに腰を下ろすと、背中に温かい体温を感じた。
「あったかいですね……」
「……ああ」
短い返答の中に安心感が滲む。
ふと腕が腰に回され引き寄せられる感覚がして身体が密着する。
「……っ尊さん?」
「ん?」
「あの…ちょっと恥ずかしいです……っ」
「今更か?」
「まだ…慣れないですもん…尊さんはいちいち俺をドキドキさせすぎなんです…っ」
「いちいちドギマギしてるのは恋だろ?」
「そっ、それは言わないでください…!」
「はいはい」
尊さんはそう言うと俺の肩に顎を乗せる。
吐息が耳元にかかりくすぐったい。
「尊さん…?た、尊さんの息がかかって、くすぐったいんですけど…っ」
「少しだけだ」
「うう…っ」
そのまま黙って二人で温泉を堪能する。
遠くで波打つ温泉の音を聴きながら、さっきまでの緊張が嘘のように解けていく。
背中に感じる尊さんの心音と体温に包まれて幸福感で満たされていく。
(なんだか、すっごく…安心する)
◆◇◆◇
しばらくして大浴場を後にし部屋に戻ると、温もりが残る体を冷ますように二人で窓際に腰掛けた。
湯上がりのほてりを感じながら窓の前で夜空を見上げていると
そっと、背中に体温が重なった。
不意に伸びてきた尊さんの腕が、逃げ場を塞ぐみたいに俺の首に回される。
強くはない。ただ、離さないという意思だけがはっきり伝わってくる抱き方だ。
「尊さん?どうしました?」
顔だけで振り向いて、そう聞くと尊さんの唇が耳元に近づいた。
「……別に。こうしたいだけだ」
その囁き方が意図的に甘さを含んでいるのがわかって、背筋がぞくりとする。
「た、尊さん…えっと…誘って、ます?」
「?いや、普通に抱きしめただけだが…」
「へっ?あっ、そ、そうなんですね…!で、ですよね!」
咄嗟に顔を伏せたけど、尊さんの指先が顎を捕らえ引き上げた。
その動きはどこまでも慎重で柔らかいのに、逆らえない強さがあった。
「シたがりだよな、恋って」
視線が絡んだ瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「う……っ」
喉が詰まって何も言えないまま固まってしまった俺を、尊さんは愉しそうに見つめている。
「ふ……冗談だ」
「その…今日は、えっちしなくていんですか…?」
「…その気になったら、かもな?」
「な、なんか言い方意地悪です…!」
「ただ、せっかくの旅行だからな、お前を抱きしめて寝たい」
「それはもちろん大歓迎ですけど…!あ、尊さん、もしかして疲れてます…?」
「いや、逆だ」
「逆?」
「恋のおかげで疲れが消えて、癒された」
「本当ですか!えへっ、それなら頑張って計画した甲斐があります…!」
「それで改めて思った」
「なにを思ったんですか…?」
「いつもお前のそういう気遣いや優しさに助けられてると思ってな…まあ、お前は大したことしてないって謙遜するんだろうが」
「ははっ、そりゃそうですよ。尊さんの気分転換になったらいいなって思ってしただけのことですし」
「俺、尊さんが辛いときとか、落ち込んじゃったときは全力で励ますので…!」
尊さんの方に体ごと振り向いて元気よくそう言うと
「ふっ…そうか。頼もしいな」
「俺にできることならなんでもするので、遠慮せず言ってくださいね!」
「……なら、手始めに添い寝してもらうか」
「ふふっ、喜んで」
消灯した部屋の中、月明かりがシーツを白く照らす。
どちらからともなく布団に潜り込み、尊さんの香りと腕の重みを感じながら
俺は深い幸福感の中でゆっくりと瞼を閉じた。