***
“俺、○○県へ異動になった。二週間後、ここからいなくなる”
そう言った時、若菜は呆然と目を見開いた。
まるで感情が一時的に抜け落ちてしまったような目をして、ただ俺のことをじっと見ていた。
「ごめん」と言って理由を告げたけれど、言わなかったのは若菜のおじさんのことだけが理由じゃない。
言えなかった。
自分に自信がなかった。
家も仕事も置いて―――若菜の大切にしているものを置いて俺のことを考えてほしいなんて言えない。
俺はそんなことを言えるほど立派な人間じゃない。
「若菜にここを離れたくないよな」なんて聞いたのも、わかっていながら確認してしまう自分が情けないのに、心の底では俺のことを考えてほしかった。
“原田に告白されたんだろ?”
それを聞いたのも、原田と話をしたことがわかったから―――原田と話したならきっと若菜に告白していると思ったからで、若菜の口からそれを告げられるより、まだ自分で言い当てたほうがマシだったからだ。
若菜は俺を見つめたままなにも言わない。
言わないのが答えだった。
俺はバカで、わかっていたのに傷ついて……そんな自分を若菜に知られるのがイヤで、苦しさをごまかして弱い笑みを浮かべる。
おじさんに、若菜たちは付き合ってないって言ったこと。
原田がおじさんの仕事手伝いたいって言ってるって聞いたこと。
あいつならおじさんの力になれると……自分と違うと思ったこと。
若菜のことも幸せにできるのかもって……思いたくないのに思ったこと。
若菜に伝えながら、心がすり減っていくのがわかる。
こんなこと言いたくなんてない。
原田にとられたくない。
本当は……今日若菜に20歳の時にした約束を果たしたいと伝えるつもりだった。
だけど……俺にはその資格がきっとない。
「……認めたくないけど、俺よりあいつのほうが若菜たちの力になれる。
あいつはその意思もあるし、それだけの力があるんだよ」
俺は……自分が若菜を幸せにできるような器じゃないことをよくわかっている。
最後の言葉は、自分自身に言い聞かせたかったのか、若菜に伝えたかったのかわからない。
ただ若菜は唇をわななかせて、目に涙を浮かべて俺のことを見ていた。
若菜を見ていると自分がとても無力でバカなやつだと思えてくる。
あぁ、なにやってるんだろう。
若菜には笑顔でいてほしいのに。こんな顔させたくなんてないのに。
「異動……するの? 湊、遠くに行っちゃうの?」
長い長い間を置いて、若菜は震える声で言った。
不安やさびしさ、恐さに似たものを感じ取って、俺も同じ気持ちになって、あらためて俺たちが一度も離れたことがなかったことを実感する。
「会社には異動、断ってないよ」
「そうだよ」と、はっきり言えなかった。
行きたいと思っていない。異動がなければずるずると若菜との関係も今まで通りにいられたかもしれない。
だけど俺には異動が言い渡されたし、仕事を辞めておじさんの仕事を手伝うと決められなかった。
なにより俺より原田のほうがよほど役に立つ存在だとわかっている。
唇を噛んで、目を逸らすように視線を落とした若菜に、俺も弱々しく目線を落とした。
「……俺がいなくなっても、きっと原田が若菜と若菜の家を助けてくれるよ。あいつ……お前のこと本気みたいだから」
口にしながら原田とのメールや原田との電話が頭をよぎる。
若菜が好きだと伝えてきたこと。
俺の気持ちを聞いてきたこと。
若菜の家のために力になりたいと言っていたこと。
告白すると言っていたこと。
「……だから、心配するなよ。大丈夫だから」
俺の言葉を若菜はどんな気持ちで聞いているんだろう。
受け入れられていないのは感じる。
……それもそうか。
俺の異動の話は突然だったし、原田が告白したのも突然だったんだから。
若菜の体が硬くなって、息を詰めたのがわかった。
だけどそのあと徐々に弛緩して、涙がとめどなく溢れているのを感じる。
「……なんで。なんでよ……」
喉にかかった声の後、若菜の嗚咽だけが俺の腕の中でくり返されては消える。
「湊は……、私と原田くんが付き合ってほしいの?」
細くて震える声が聞こえた瞬間、ぐっと胸が押さえつけられたみたいに苦しくなった。
そんなわけないだろ、と心の声が外に出ていきかけた。だけど俺の口は小さく開くだけで、反動のようにすぐ下唇を噛む。
そんなわけない。
だけどそう口にしたところで、その後の言葉が続かなかった。
俺は若菜のおじさんの助けたくても、助けられる力も気概もなくて、若菜を幸せにできる道筋も見えていない。
胸が張り裂けそうになる中、俺は長く息を吐いて、ゆっくり言葉をつないだ。
「あいつは……原田はきっと、若菜を幸せにしてくれるよ」
口にした途端、諦めに似た気持ちと、胸を締めつけられた苦しさが同時にせり上がった。
その苦しさで顔を歪めた時、若菜が俺の胸をドンッと押した。
思わず後ろによろけ、若菜を見れば、若菜は強く唇を噛み、涙を目いっぱいに溜めて俺を見ていた。
呆然とした。
突き飛ばされたことじゃなく、若菜の初めて見るその表情に。
若菜はしばらく強い目で俺を見ていたが、やがて頬に涙が一筋こぼし、視線を斜め下へやった。
「……ごめん。今はひとりにしてほしい」
消え入りそうな声で言い、それきり若菜は俺も見ずになにも言わなくなった。
行くあてなんてなかったが、若菜が俺といたくないのは伝わってくる。
「……わかった。じゃあ俺、その辺散歩してくる」
呟くように言い、俺は温かな明かりの灯るテラスを離れた。
明かりから遠ざかるにつれ、自分の心にも光が閉ざされたようになり、足取りも引きずるように重い。
若菜を泣かせてしまった。
異動になると伝えれば、驚かれることは予想できていた。でもあんなふうに泣かれるのは想像していなかった。
……いや、きっと異動を伝えただけなら、若菜はあんなふうにならなかった。
若菜が俺を見た目は、失望や絶望、怒りや悲しみなどあらゆる感情がひっくるめられていた。
若菜を一番理解しているのは俺だと思っていたのに、あの時の若菜は俺のことを、一番理解できていないやつだと思っていたように思う。
今日告白するつもりだったけれど、原田がもし若菜に告白していたら、俺はどうするのか自分でも決めきれていなかった。
実際はこんな形で異動だけを伝えることになって……。若菜のことは俺が一番よくわかっていると思っていたけど、今はそれすら自信がなかった。
自己嫌悪に襲われるが、言ってしまったものはどうしようもないし、原田のほうが若菜や若菜の家のためになるという結論だって変わらない。
あてもなく森の中を歩いていると、気づけば前に若菜の誕生日に予約したコテージの前に来ていた。
真っ暗なコテージを見ながら、先日ここで若菜のために料理を作ったこと、若菜と食事をしたことが思い出される。
あの日伝えようとしていたことも思い出されて、そうできなかった自分が苦しくて……。
「なにやってんだよ、俺」
自分への怒りと失望が声になって、自分へぶつかってきた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!