< monologue >
アパートの自室の番号が記されている郵便受けを開くと1枚のハガキが入れられていた。
俺が通っていたクリニックからのハガキだった。
定期的に届くものだから、いつものものだと慣れた目つきでハガキに書かれた文字をなぞっていく。
時間が経過するほど、このハガキはいつもと違う内容なのだと気付かされる。
この一通のハガキが俺の人生に再び懐かしい風邪を吹かせた。
< pnside >
仕事終わりの図書館は独特の静けさがある。
昼間の人の気配がまだ棚の間に残っているのに、もう誰もいないみたいな空気だった。
閉館作業を済ませて、自動ドアをくぐると外の空気がひんやりしていて、肺に落ちる感じが心地よかった。
夜の澄んだ冷たい風が当たると昔の夜がじわっと浮かび上がる。
三年前の病室の匂い。
白いシーツ。
天井の薄い光。
あの人の声。
名前を思い出す度に胸の中に静かに響く。
つかむ場所がないのに消えない。
時間が経ったら薄れると思ってたけれど、どうやら俺はそんなに器用じゃなかったみたい。
あの人の事を忘れた日なんてこの3年間一度もなかった。
歩きながらバッグの紐を握りしめる。
昼の仕事では明るめに動く。
返却カウンターで人と話すことも増えた。
大人になって少しだけ人との距離がわかるようになった気がする。
それでも夜になると考える癖は直らない。
自分のことで心が沈むのも。
誰に向けてでもなくため息が漏れるのも。
夜風に当たるために歩く道はほぼ決まってる。
図書館からまっすぐ北の通りに出て、駅の高架下を抜けて、その先の坂をゆっくり下る。
その途中の大きい木のそばが、なんとなく落ち着く場所になってた。
人も歩かなくて、風だけが動く感じのところ。
今日もそこまで行くつもりで足を向けてたのに、気づいたら違う方向に逸れてた。
角を曲がった瞬間、あれ、と声にならない疑問が出る。
どうしてこっちに来たんだろうって考えるけど、答えは最初から分かっていた。
この道は三年前に見たのが最後。
枯れかけた銀杏並木の道は消毒液の匂いが染みついてるあの建物の方へ続いてる。
歩幅が勝手に決まる。
迷ってるわけじゃない。
ただ、確かめたい気持ちだけが俺の背中を押してくる。
わざわざ行く理由なんてない。
不眠が続いてるけど、市販の薬でも足りている。
けれど担当医が変わるというハガキが届いてから気がつくとその紙を何度も見返していた。
病院の名前。
診察室の番号。
三年前と同じ、何も変わっていない。
別に期待してない。
会えるとも思ってない。
主治医が彼かもしれないなんて希望は無い。
ただ、目を閉じるたびにふっと浮かぶあの人の名前がどうしても消えなかった。
あんな状況で、深くまで言葉交わしたというのに、そのあと一度も触れられずに終わった俺たちの関係。
そのまま終わるのが嫌だっただけかもしれない。
気づいたら建物の前にいた。
夜の病院の外観は少し重い。
白い壁が月の光で薄く照らされてて、静かに呼吸しているみたいだった。
ガラスの扉に近づくと、俺の影がすっと伸びてふるえた。
開ける理由はない。
でも、足が止まらない。
中に入ると受付はすでに閉まっていて、薄暗い照明だけが灯ってる。
夜間は救急の受付しか動かないのは分かっていたが、 雰囲気だけでも吸い込みたかった。
三年前、ここで毎日のように見ていた光景。
病室へ向かうための廊下。
その廊下の先で何度も名前を呼ばれた声。
帰ろうと思えば帰れた。
でも踵を返せなかった。
立ち止まったまま、自分の呼吸だけが大きく聞こえてくる。
目を閉じると、ふと、ある夜のことが浮かんだ。
3年前、17歳の俺がこの病院に入院していた。頃、俺はほとんど夜になっても眠れなかった。
痛みと不安で胸が重くなるたびに、ナースコールも押せなくて、目を開いたまま天井を見てた。
そしたら気づいたら誰かがそばに立っていたんだ。
らっだぁ先生。
静かな目をして、俺の名前を呼んだ。
声の温度だけで泣きそうになった夜が何度もあった。
あんな時間に何度も来る医者なんて普通じゃない。
でも先生はそんなふうに自分を言わなかった。
俺が眠るまで、話を聞いてくれたり、黙って隣にいてくれたりした。
あの時間だけが、病院で唯一呼吸が楽になった瞬間だった。
俺が手のかかる患者だったせいで、先生の担当は俺だけだったのに日に日にクマが濃くなっていく日もあった。
ゆっくりと目を開けると、病院の空気が胸の奥を引っ張る。
三年前の俺は弱かった。
動けなかった。
逃げ場がなくて、好きだって気持ちの名前にも触れられなかった。
あの日、ドラマの最終話みたいに終わった俺たちの間の時間はずっと止まっていた。
今なら…
今なら、ちゃんと向き合えるかもしれない。
そんな思いが不意に胸をよぎる。
歩き出そうとしたとき、ポケットの中のハガキが動いた。
指先で触れると、担当医変更のお知らせの紙の端が少し折れている。
その瞬間、頭に浮かんだのは一つだけだった。
_ もう一度会いたい。
会って、あの日言えなかったことを胸にしまったままじゃ苦しい。
俺は夜風を浴びたいだけのはずだった。
でも帰り道の俺は、来週の受診日を頭の中で静かに確認していた。
時間も曜日も全部覚えている。
ただの通院、
ただの再診。
そのはずなのに胸が少しだけ熱い。
図書館とは違う種類の静けさの中をゆっくり歩いて帰る。
風が頬に触れるたび、3年間1度も聞いていないあの人の声が遠くで響く。
忘れるわけがなかった。
再び夜風が揺れる。
次の診察の日までこの気持ちをそっと抱えていく。
そんな一日の終わりだった。
𝙉𝙚𝙭𝙩 ︎ ⇝ ♡1000 💬1
コメント
1件

あぇ夜風に触れての続き…?それか夜風に触れてのあったかもしれないやつ?え?好きです。