テラーノベル
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陽の光が差し込むオフィス。十二時の空は眩しい。久我晃一は普段通りに弁当箱を後輩へ渡し、自身は朝に買ってきた菓子パンを口にする。あちらで雑談の行われるその空間で、チョコスティックパンの袋が弾ける音は、男とその周囲のごく数人にしか聞こえない。男が椅子を滑らせ道の中央に出ると同時に、丁度その場所で二人はぶつかった。
女は男に下から視線を送ると、何も言わず目を閉じて口を開く。男はその口に袋から取り出したパンを置き、ハムスターのように捕食する彼女を見つめる。
「ねえ、いつになったら私のモノになってくれる?」
女は半分あたりまで食べたあたりで、一度飲み込んでから、そう言った。
「そうだな。今はまだ……としか言えないな」
ため息をつくように答える。男の持つスマートフォンには、ある人とのメッセージ場面があった。『お弁当ありがとう。美味しかった。』予測変換に従って出てきたその文字を送る。
闇に包まれた部屋。東雲弦はその空間唯一の光、青白く発光するそれを睨み、口が裂けたかのような笑みを零す。ひどい猫背で立ったままマウスを揺らして、一瞬。傍から見れば痙攣と見間違えるほどの早さでキーボードを鳴らした。笑みを失い、液晶の五ミリ前まで鼻を近づける。
すると、遂に狂ったのか。彼女は猫の威嚇のように音も無く叫ぶと、腕を広げて天を見上げた。そのまま弾力ある椅子へ腰を掛け、力尽きたように脱力した。
「ああ神よ。ああ神よ。楽しいものですね、人の不幸というものは」
液晶に映っていたのは、桃色の蛍光で輝く建物から姿を見せる、二人の男女。久我晃一ともう一人。女は世界でも変えるのかというように、大きな動作でエンターキーを刻んだ。その写真は確かに送信された。
「はいはーい。本日の動画はここまで。良ければチャンネル登録、高評価をよろしくお願いしまーす。ばいばいっ!」
スタンドで固定されたスマートフォンに向け、しばらく笑顔を送りながら手を振る。十秒ほど経ったあたりで画面に触れ、大きく息を吸った。それだけで、その瞳は先刻までとは違う。太陽のような明るさも優しさもない。冷酷で美しい、獲物を観察する白虎のような気高さがそこにはあった。
女はプライベート用のスマートフォンを取り出す。通知が二つ。『お弁当ありがとう。美味しかった。』夫からのいつもの連絡があった。彼は律儀で誠実なところがあるので、毎日こうやって昼食の時間にはメッセージを送ってくる。女は笑わなかった。嬉しくはなかったのだ。むしろ、こう沸々と怒りが湧いてくる。
もう一つの通知を開く。女はため息を零すと、ハンカチで涙を拭った。怒りよりも、ただ悲しかった。私がこれほどまでに愛し、支えてきた相手は、私の事など愛してはいなかったのだ。女は飾られた写真を見つめる。久我晃一と誉田美蘭の写真。他に誰もいない二人だけの写真。
あの頃の幸せはもう……。思わず視線を落とす。女は立ち上がり、椅子も元の位置に直さず、強く扉を開いて歩いていく。その先に何があるか。無論、不幸。否、真実。
「私はもう、あなたを許せない」
振り返る事も無く、女は進む。部屋に残されたスマートフォンにあったのは、女といる夫の姿。久我美蘭。彼女は今一人だ。だが、その正義感は決して夫、いや久我晃一を許しはしない。ならばこの瞬間、ある未来は確定したと言えよう。復讐は既に。
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